もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

2019-11-30から1日間の記事一覧

熊本城

【2013年6月14日☆】 細川越中守慶順。 肥後熊本54万石の最後の殿様だ。 世間一般に細川韶邦と呼ばれる人物なのだが、初めは細川慶順と名乗っていた。 これは江戸時代の習慣で、国持大名は将軍の諱をもらうためである。 慶順の「慶」は家慶将軍の「…

岡山城

【2012年1月6日】 天和元年9月12日。 岡山藩江戸藩邸に一組の母子が逃げ込んで来た。 母親は岡山藩隠居・池田光政の姪で、子供は板倉重宣だ。 光政の姪は下野烏山藩主・板倉重矩の嫡男・重良に嫁いだが、重良は精神異常を理由に廃嫡されてしまい、…

熊本城

【2012年1月10日】 稲葉正利。 幕府老中・稲葉丹後守正勝の弟で、春日局の息子だ。 正勝は家光将軍に仕えたが、正利は徳川忠長に仕えた。これが二人の明暗を分けた。 正勝は幕府老中としての道を歩み、正利は徳川忠長に連座して罪人扱いとなった。 寛…

鶴ヶ城公園(会津若松城)

【2012年1月12日】 「婦人女子の言、一切聞くべからず」 (会津藩家訓・第四条) 保科正之が何故このような条文を作成したのか? 吉宗将軍同様「基本は人のいのち」としていた正之が、何故こんな露骨な男尊女卑を家訓の条文に入れたのだろうか? これ…

鶴山公園(津山城)

【2012年1月20日】 津山藩松平家は越前宰相・松平忠直を藩祖とする。 松平忠直は結城秀康の嫡男だったが、不祥事を理由に除封になり、代わって次男・忠昌が福井藩を継いだ。このため、幕府では忠直の血統を「宗家」、忠昌の血統を「本家」とした。忠…

岡山城

【2012年2月15日】 池田新太郎光政。 備前岡山藩池田家の初代藩主だ。 5歳のとき、初めていえやっサンに対面した。光政はいえやっサンにとって義理の孫に当たる。 いえやっサンが光政を膝の上に乗せて「おお、かわいいのう」と頭を撫でていると、光…

小田原城

【2012年2月21日】 寛永9年。 下野真岡藩主・稲葉正勝は老中職就任に伴い相模小田原へ転封となった。 真岡では4万石だったが、小田原では倍増の8万5千石を与えられた。 正勝は8万5千石に相応しい家臣団の形成が必要になった。 そこに、有能な人…

福山城

【2012年2月24日】 慶応3年12月17日、備後福山藩主・阿部正方が20歳で病没した。 福山藩阿部家は藩主不在の状態で明治維新を迎えた。 福山藩阿部家には2つのグループがあった。 ひとつは、安芸広島藩主・浅野長勲の弟・元次郎を養子に迎えて…

松山城

【2012年2月27日】 愛媛県松山市祝谷東町。 ここに、一人の元大名の墓がある。 その元大名、名をば 松平能登守定政 という。 何故、「元」大名なのか? それは彼が取り潰されたのちに松山にやって来たからだ。 慶安4年7月18日。 伊予松山藩主・松…

高知城

【2012年3月5日】 天保13年。 土佐国吾川郡名野川の郷民300人、伊予国松山藩領へ逃散。 300人もの大人数が土地を捨てて逃げ出したのだ。支配者は責任を問われてしまう。 「武家諸法度」には大名を改易にする理由の一つに「民を亡所にする」と…

大阪城公園(大坂城)

【2012年3月15日】 『幕府祚胤伝』という本がある。 徳川家の家系図が書かれている本で、当然ながらいえやっサンの子供のことも記載されている。 その中に、 小笠原権之丞 という男子について記述がある。 この権之丞は松平忠輝の弟にあたると書かれ…

鶴ヶ城公園(会津若松城)

【2012年3月15日】 会津藩三代藩主・保科正容は正室・竹姫の死後、二人の側室を寵愛した。 一人は横山常定の娘・お祐で、もう一人は榎本又兵衛の娘・おもんだ。 二人とも浪人の娘で境遇は似たもの同士だった。そして二人は正容を寵愛を独占するために…

小城公園(小城城)

【2012年4月5日】 小城藩鍋島家は「鍋島御三家」として創立された。 「鍋島御三家」とは佐賀藩鍋島家の分家のことで、小城藩・蓮池藩・鹿島藩の3藩を指す。 小城藩鍋島家は佐賀藩主・鍋島勝茂の庶長子・元茂が立藩したもので、家禄は7万3千石だった…

松山城

【2012年4月6日】 岡野金右衛門包秀。 元服前の名を九十郎という。 播磨赤穂藩士・岡野包住の嫡男で、浅野家取り潰しののち吉良邸討ち入りに参加した。 赤穂城明け渡しの際には父親とともに籠城討ち死にを主張した硬骨漢だった。 結局、無血開城に決ま…

岡城

【2012年4月10日】 小河一敏。 豊後岡藩勤王の志士である。 一敏は文化10年、岡城下の上角で生まれた。 若き日に岡藩儒学者の野溝清格と角田九華に朱子学を学び、のちに陽明学を学んだ。 才能ある若者だったため、岡藩総奉行の柳井藻次郎が一敏を岡…

和歌山城

【2012年4月10日】 享保11年3月1日。 オランダ人馬術師・ケイヅルが江戸城で吉宗将軍と対面した。 からだを動かすことが大好きな吉宗将軍は、この面会を楽しみにしていた。 吉宗将軍はケイヅルから馬術を学びたかったのだ。 吉宗将軍は将軍職に就…

駿府公園(駿府城)

【2012年4月10日】 元和2年。 駿府城で病床にあったいえやっサンは、もはや自分の健康の回復は見込めないと悟って江戸老中・土井利勝を枕元に呼び寄せ、遺言を残した。 その遺言は秀忠将軍の補佐のことが中心だったが、ある1点、いえやっサンは黒い…

鶴岡公園(鶴岡城)

【2012年4月16日】 「判決、金森兵部少輔の所領・美濃郡上を収公。その身は盛岡藩南部家へお預けとする」 判決文を読み上げる裁判長・酒井忠寄(55歳)。 忠寄は出羽鶴岡藩主である。 この裁判は美濃国郡上藩で起きた一揆と神社領の宗教対立の2つ…

熊本城

【2012年4月19日】 宝暦5年。 肥後熊本藩主・細川重賢の命によって藩校・時習館が設立された。 時習館は熊本藩宝暦の改革の一環として設立された。 藩財政がほぼ破綻状態の中、重賢は反対する声を抑えて藩校設立を命じた。 藩校設立を建白したのは重…

白河城

【2012年4月20日☆】 天明7年6月19日。 陸奥白河藩主・松平越中守定信は首席老中に任命された。 これから6年間、定信は政治改革を実行する。 定信の行った改革を「寛政の改革」と呼ぶ。 「寛政の改革」のメインテーマは財政の建て直しであった。 …

高田公園(高田城)

【2012年4月20日】 稲葉丹後守正往。 松平光長改易後の越後高田藩主である。 もとは相模小田原藩主であったが、親戚の稲葉正休が大老職・堀田正俊を刺殺したため連座で罪を問われて京都所司代を罷免のうえ越後高田へと国替になった。 「あのトンチキ…

姫路城

【2012年4月25日】 後藤又兵衛基次。 もとは筑前福岡の黒田長政に仕えていたが、慶長11年、黒田家を退去した。 黒田家を退去した理由は黒田家と不仲だった豊前小倉の細川家との交際だった。 又兵衛は有名な武将だったのでいろんな大名家と交際があ…

上田城

【2012年4月26日】 天和元年11月22日。 信濃上田藩主・仙石越前守政明は2人の人物の身柄を預かった。 この2人、名をば栗本直堅と真田辰之助といい、上野沼田藩主・真田信利の三男と四男である。 この2人は沼田藩お取り潰しにともない、上田藩…

鶴ヶ城公園(会津若松城)

【2012年4月27日】 井深重義。 世間一般に井深宅右衛門と呼ばれるこの男は、会津藩学校奉行だった。 家禄550石。 維新後の明治6年に小学校教員として会津に帰郷。若松区長や南会津郡書記等を歴任。地元に根を張った教育者であった。 この教育者・…

弘前公園(弘前城)

【2012年5月1日】 石田隼人正重成。 石田治部少輔三成の次男である。 関ヶ原の戦いでは本拠地・近江佐和山城を守っていたが、佐和山落城後、津軽信建の助けで津軽へ逃亡した。 津軽家は石田三成と親しく、重成逃亡の手助けは情に厚い東北人ならではの…

小倉城

【2012年5月16日】 元和2年6月28日。 豊前小倉藩主・細川忠興は国許の世子・忠利に 「金地院、御前いよいよ遠くなり申し候」 と手紙を書いている。 「金地院」とは金地院崇伝という僧侶のことを指す。 崇伝は室町幕府の三管四職のうち四職にあた…

松山城

【2012年5月18日】 貝賀弥左衛門友信。 播磨赤穂藩士で蔵奉行を務めていた。 この蔵奉行の一生が決まってしまったのが藩主・浅野長矩の刃傷事件だ。 城地没収。 弥左衛門は他の藩士同様、蔵奉行から浪人になってしまった。 弥左衛門は「喧嘩両成敗が…

熊本城

【2012年5月28日】 寛永19年8月。 肥後熊本藩隠居・細川忠興は京都から一人の男を隠居所・八代城に招いた。 その男、名をば 長岡休無 という。 剃髪しているので「休無」と名乗っているが、元の名を細川忠隆という。 細川忠隆は忠興の長男で本来な…

長浜城

【2012年5月30日】 竹中半兵衛は生前、秀吉の弟・秀長に 「殿には己を空しゅうしてお仕えなされよ」 と忠告している。 「己を空しゅう」 自我を持つな、と、半兵衛は言っているのだ。「それがNo.2の立場の者がいのちを長らえる方法だ」と。 No…

松江城

【2012年5月30日☆】 松平出羽守宗衍。 出雲松江藩主である。 かの有名な松平不昧治郷は宗衍の息子だ。 宗衍は、妖怪や化け物が大好きだった。 江戸藩邸の自室には部屋いっぱいに妖怪や化け物の絵を描かせた。 そしてその大好きな妖怪や化け物の絵を人…