城ネタ2008
【2008年1月5日☆】 霞城とは山形城の別称だ。 雪化粧した山形城ってのも、綺麗なモンだな。 山形はかつて最上と呼ばれていた。 それは山形一帯を最上家が領していたからだ。 最上家は義光の頃57万石を得て、東北地方では伊達政宗の次に大きな大名だ…
【2008年2月5日】 「一期は夢よ、ただ狂え」 黒田官兵衛(如水)がそんな気持ちだったかどうかはわからないけれど、もし、関ヶ原の戦いが1日で片付かなかったら面白い展開があったかも知れない。これは伊達政宗にも共通している。 官兵衛は九州で、政…
【2008年2月11日】 松江城を築城したのは堀尾吉晴。 以後、堀尾家三代の居城となった。 三代目の堀尾忠晴に嗣子が無かったので、お取り潰しになった。 堀尾家では忠晴の従兄弟をもって家督相続を願ったが、幕府老中・松平信綱がこれを認めず堀尾家は…
【2008年2月17日】 福知山城は丹波国の主要城郭のひとつだ。 福知山では明智光秀の悪口を言うと選挙に落選してしまうと、会田雄次先生が生前著書に書いている。「ホンマかいや?」って思うけどな。 福知山藩主に稲葉紀通というのがいた。 どうしよう…
【2008年2月18日☆】 大学生が外国人観光客に英語でガイド。いいことだ。 二条城は、大御所家康が豊臣家討滅を決心した場所だ。 二条城で豊臣秀頼と対面した大御所家康は、 「この若者は、生かしておいてはいけない。自分が生きているうちに始末してし…
【2008年3月4日】 本多正純は本当に宇都宮城に釣り天井を仕掛けたか? 仕掛けていない。 徳川幕府の権力争いは将軍の代替わりに必ず起こった。 本多正純もまた、この権力争いの中に巻き込まれた一人だ。 正純は大御所家康の側にいて、『駿府の御執政』…
【2008年3月4日】 『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』 姫路城は池田輝政が築いた最高傑作なのだが、江戸時代は建築物の維持技術があまり発達していなかったので、城のあちらこちらが変形してしまい、それはそれはタイヘンだった。 冒頭の里…
【2008年3月7日☆】 昭和53年、福山城に水野勝成と阿部正弘の銅像が建てられた。 ちょっとそんなことを思い出した。 舟付状遺構の調査が進むことは、福山地方の歴史に新しい発見があるかも知れないということ。 水野勝成入封前は、備後国に福山という…
【2008年3月10日】 駿府は大御所家康が隠居所に選んだ場所だ。 ここで、大御所家康は手元に頼将(のちの頼宣)を置いて養育した。 大御所家康が少年頼将を可愛がったのは確かで、江戸の秀忠将軍は大御所家康の死後、頼将を紀州に飛ばした。 これは秀…
【2008年3月15日】 唐津藩主の中で有名なのが水野忠邦。 「天保の改革」と呼ばれる僅か1年でダメになった改革をやった人だ。 唐津藩は表高6万石に対して実高が24万石あった。 だから、水野家は唐津に居続けたほうが豊かでゆとりのある暮らしを続…
【2008年3月16日】 ああよかった。 唐津城のときは何を書くかで気ィ狂うかと思ったからな。 肥後国はもともと二分割されていて、熊本を本拠地とする加藤清正が30万石、宇土を本拠地とする小西行長が24万石を領していた。 関ヶ原の戦いで小西行長…
【2008年3月28日☆】 新年度から新しい生活が始まった人たちに向けて北条氏康のことを書く。 北条氏康は生まれつき神経質というか敏感というか、そんな感じの子供だった。 氏康は初陣のとき、恐怖のあまり馬上失禁してしまった。 これを恥じた氏康は小…
【2008年4月8日】 大坂城って、書きやすいようで書きづらいんだよね。 だってさ、あそこ、秀吉と秀頼しかいないんだもん。城主が。 と、いうわけで、今日は大坂城代の話です。 「何故、大坂は城主じゃ無くて城代なんだ?」 そう思う人がいると思う。 …
【2008年4月9日】 細川重賢はもとは部屋住みで、家督相続する立場では無かった。 だから重賢はいつも植物の本ばかり読んでいた。 権力とは無縁のところで生活していた。 これが、兄であり藩主である宗孝の死によって一変する。 江戸城のトイレで板倉勝…
【2008年4月10日】 土方歳三の遺体は何処に行った? 遺体が発見されないことに歴史の面白さがある。 同じく、織田信長の遺体も本能寺の焼け跡からついに出てこなかった。 オレはあまり新選組に興味が無いから、正直な気持ちを言えば五稜郭にもあまり…
【2008年4月10日】 「姫路城は奇跡の城」 先の大戦で姫路が空襲を受けたとき、姫路城下は全焼したのに姫路城は焼けなかった。 よく、「城郭や寺院は文化財だから爆撃の対象にはならない」なんて言うけれど、実際のところは「城も上空から見れば一つの…
【2008年4月10日】 毛利勝永という武将がいた。 もとは豊臣家の軍事将校で、豊前小倉1万石の藩主だった。 文禄・慶長の役で活躍したこともあった。 関ヶ原の戦いで西軍に付いたため取り潰され、土佐の山内一豊にお預けとなった。 一豊は勝永に1,0…
【2008年4月11日】 オレは吉宗ファンだからね。 吉宗将軍が紀州藩主時代、和歌山城の宿直の藩士が役目中に酒を飲んで城内の屏風を傷つけてしまった。 こんな不祥事は当時の常識では切腹モノなのだが、藩主吉宗は「今度から気をつけろよ」と口頭で注意…
【2008年4月11日】 「台無し」 「水の泡」 「ぶち壊し」 今日書く松平治郷を表現すると、上記のような悪い言葉ばかり浮かぶ。 治郷が出雲松江18万石を相続したとき、松江藩の財政は破綻していた。 これを何とかするために治郷は朝日茂保(丹波)に…
【2008年4月14日】 佐竹義宣は石田三成との友情を大切にしたために関ヶ原後、水戸54万石から秋田20万石に減移封された。 今日は佐竹家や久保田藩(秋田藩)のことは書かない。 秋田美人について書く。 関ヶ原後、水戸から秋田へ減移封された際、…
【2008年4月15日】 久松と書いて「きゅうしょう」と読む。 鳥取城のことだ。 鳥取城は久松山に築かれた山城で、明治に入って陸軍省が城を解体したため石垣しか残っていない。 羽柴藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の鳥取城攻めは「三木の干殺し、鳥取の渇殺…
【2008年4月15日】 長浜城ですか。 ま、秀吉飛躍の元になった城だからな。 秀吉は、信長に仕えているときが一番輝いてたんだよ。 オレはそう思ってる。 ずっと前にNHKで『利家とまつ』って大河ドラマをやった。 香川照之さんが演じた秀吉が実像に…
【2008年4月17日】 会津若松はもともと会津黒川という地名だった。 豊臣秀吉の『奥州仕置』によって伊達政宗が会津黒川から岩出山に国替えになると、会津黒川には蒲生氏郷が94万石(公称100万石)で入封した。 会津黒川に入封した氏郷は「ここを…
【2008年4月18日】 「太く短く生きる」 それが幸せなことかどうかは、本人にしかわからない。 「正直」と「身勝手」は紙一重。 大須賀高胤という若者がいた。 1,000石の旗本の家の次男坊だ。 旗本の家の次男坊なんて、露骨に「穀潰し」とかって…
【2008年4月18日】 「愛のカタチ」 ま、人それぞれでしょ。 弘前藩(津軽藩)の二代目・津軽信枚はイケメン児小姓・八木橋専太郎を巡って、家臣・高坂蔵人とホモの三角関係になった。 イケメン八木橋は、殿様(信枚)よりも高坂のほうが好きだった。 …
【2008年4月23日】 これって、新庄城だろ? 新庄城は戸沢政実が築いた。 二代目の戸沢正誠が藩主であること50年に及んだ。 50年というと、家斉将軍も在職50年だった。 清国の乾隆帝(高宗)は在任60年にも及んだ。 正誠・家斉将軍・乾隆帝に…
【2008年5月12日】 細川重賢の『宝暦の改革』を支えたのが堀 勝名という男で、用人→大奉行→中老→家老と出世した。 堀 勝名は藩校・時習館を設立した。 再春館は重賢の意向が色濃く反映されたものだったが、時習館は勝名の意向が色濃く反映された。 勝…
【2008年5月13日】 豊臣秀吉がある日、大坂城に有力な大名を集めて 「おまえたちの宝物は、何だ?」 という質問をした。 このとき、上杉家家老・直江兼続は 「それがしの宝物は兜の前立て(飾り)でございまする」 と答えている。 兼続の兜の前立ては…
【2008年5月15日】 大坂の陣の論功行賞で加藤嘉明は会津42万石を与えられた。 これには、親友である藤堂高虎の推挙があったとも言われる。 ある日、嘉明と高虎が雑談をしているうちに、 「良い家臣とは、どんな家臣だ?」 という話題になった。 嘉…
【2008年5月28日】 井伊直政に「島津は男の中の男」と言わせたのが烏頭坂の戦いだ。 関ヶ原の戦いは小早川秀秋の裏切りと吉川広家に対する調略が功を奏し、東軍が勝利した。 いきさつからやむを得ず西軍に加担した島津義弘は 敵陣突破 という突拍子も…