【2008年11月19日】
弘前藩二代藩主・津軽信枚の妻になった二人の女性、辰姫と満天姫(まてひめ)について書く。
辰姫は石田三成の三女で、北政所(秀吉夫人)の養女として信枚に嫁いだ。
この夫婦、誰の眼から見てもラブラブだった。
だがしかし…
だがしかーし!!
関ヶ原の戦いがこの二人を引き裂いた。
関ヶ原の戦いのあと、いえやっサンは信枚に
「ワシの養女を、もらってくれんかのう」
と言った。
いえやっサンは辰姫が三成の娘だということを知っていた。
「好ましくない」いえやっサンはそう言いたいのだ。
一種の踏み絵である。
信枚は泣く泣く辰姫を正室から側室に格下げし、満天姫を正室に迎え入れた。
津軽家は陸奥国津軽地域(現在の青森県津軽地域)に5万石を領した大名だったが、上野国(現在の群馬県)に2,000石の飛び地を持っていた。
そこで信枚は辰姫を上野国の大舘というところに住まわせ、関係を続けた。
弘前から大舘に移したというのがミソで、大舘に移すことでいえやっサンに対して「もう正室ではありませんよ」とアピールする効果と、この状態にして置けば幕府にも津軽家中にも遠慮気兼ねナシに辰姫と関係を続けられるからだ。
実際、信枚と辰姫のラブラブの関係は辰姫が死ぬまで続いた。
そしてついに、信枚と辰姫の間に愛の結晶が生まれた。
BABYの名前は
平蔵
と名付けられた。
この当時の習慣で、乳母が平蔵を養育した。
この宇喜多浪人がのちに『船橋騒動』という御家騒動の原因となる。
信枚は船橋の妻を乳母に採用するにあたって船橋に300石、さらにのちに300石を与えて厚遇した。5万石の中からの600石だ、決して小さくは無い。
辰姫が死ぬと、平蔵は乳母をはじめとした船橋一族にますますなついた。
そして信枚が臨終の際に平蔵を三代藩主に指名するに及んで、船橋一族は弘前藩の権力者街道をまっしぐらに歩むことになる。
弘前藩の後継者候補は三人いた。
辰姫の子平蔵
満天姫の子万吉
兄・信建の子熊千代
信枚は強い意思を持って平蔵を後継指名した。
平蔵は、この世で一番愛した辰姫の生んだ子だからだ。
平蔵は名を信義と改めて弘前の地に入った。