もずの独り言・はてな版ごった煮

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彦根城

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【2008年11月18日】

彦根藩井伊家の初代は井伊直政

二代目は直孝となっているが、実は直政と直孝の間にもう一人直勝という人がいた。

本来なら、直勝が二代目としてカウントされなきゃおかしい。

が、直勝は二代目として認められていない。

直勝は大坂の陣のあと強制的に分家させられて、近江彦根35万石から上野安中3万石の小大名に転落した。

そして直勝が彦根藩主だったという事実は公式的には消された。

何故か?

それは直勝が結城秀康と親しかったことが原因だ。

結城秀康という人はいえやっサンの次男で、徳川家→豊臣家→結城家と養子の渡り鳥をやっているうちに徳川家の相続権を失った。

関ヶ原の戦いのあと越前福井68万石の大大名となったが、弟・秀忠が二代将軍に就任すると一気に豊臣贔屓に傾いた。

もともといえやっサンが秀康に対して冷たかったうえに、「羽柴秀康」だとか「結城秀康」だとか長年名乗っていたために人質生活の中で根付いた豊臣贔屓の感情に火が点いたのだ。

秀康は福井城内で

「もし、豊臣・徳川で合戦になったら、オレは迷わず秀頼どのに味方する」

と公言している。

そんな人と直勝は仲良しだったのだ。

家臣たちから見れば、危ないことこのうえない。

秀康の死後、少し経ってから大坂の陣が開戦となった。

彦根藩では幕府からの疑いを避けるために直勝では無くて弟・直孝を出陣させた。

この時点で直勝の藩主としての実権はひっぺがされたと見ていい。

直孝はよく戦った。

そして夏の陣のとき、直孝の部隊は秀頼母子が立て籠もる蔵を包囲して威嚇射撃をした。

この威嚇射撃がきっかけで秀頼母子は自害した。

いえやっサンは秀頼母子のいのちまで奪うつもりは無かったらしいが、直孝軍の威嚇射撃が結局秀頼母子を自害させた。

ただ、直孝にも都合があった。

そのくらいのことをして見せないと、兄・直勝のことがあって疑いの眼差しで見られてしまうからだ。

戦後、直勝は江戸に呼び出され

「病弱の身に彦根という要所は任せられず。よって、上州安中に別に家を立てるべし」

と強制的に分家させられた。

一方の直孝は正式に彦根藩主となり、大坂の陣の戦功により大老職となった。

彦根藩は二代目としての直勝の事績を削除し、井伊家の二代目を直孝とした。

直孝よりも長生きした直勝は、どう思っていたんだろう。