【2008年11月17日】
現在は「かくざん」と読まれているが、かつてここは「つるやま」と呼ばれていた。
「る」をきちんと発音しなかったため「つやま」と聴き間違った森 忠政が「津山」の二文字を当て字して今日に至る。
似たようなケースで公家の烏丸家がある。
本来「からすまる」と発音すべきなのに、これまた「る」をきちんと発音しなかったため「からすま」で定着してしまった。
「る」って、そんなに発音しづらいかな?
森 忠政は藤堂高虎同様「世渡り上手」だった。
秀吉が体調不良を訴えはじめた頃からさっさといえやっサンにすり寄って、信濃川中島13万石を与えられた。
関ヶ原の戦いでは秀忠軍に加わり真田昌幸の上田城攻撃に参加した。
このとき、秀吉から与えられていた羽柴姓を捨てている。
関ヶ原の戦いのあと、小早川秀秋が死んでその領地(備前国・美作国・備中国)が欠国となると忠政は美作一国18万石を与えられて、国持大名になった。
国持大名になってからも、忠政は徳川幕府との関係作りを進めた。
まず、いえやっサンの侍医である片山与安との関係を作り、与安からいえやっサンや秀忠将軍、いえやっサンの側室の好みまで聴き出して的確な贈り物をした。
また、老中(のちに大老)・酒井忠勝とも関係を作り、幕府内部の情報を聴き出せるようにした。
こうして忠政は秀忠・家光両将軍の「大改易時代」を乗り切った。忠政の様々な努力が実を結んだのだ。
忠政がいかに幕府から信用を得ていたかは、幕府が忠政に美作一国から出雲・隠岐・石見の三ヶ国を与えようとしてその旨を酒井忠勝を通して忠政に伝えていることからもわかる。
この国替えは忠政が死んでしまったために実現しなかったが、実現したら18万石から大幅な加増となっていた。
忠政は傷んだ桃を食べて、その食あたりのために死んだ。
酒井忠勝は江戸にいた嗣子・長継に
「急いで京におられる上様(家光将軍)に会いに行かれよ」
とアドバイスした。
家督相続のときがお取り潰しの一番の危機なのだが、長継は自らが京に行って家光将軍に忠政の死を報告したことで家光将軍からの信用を勝ち取った。
長継は無事津山18万石を相続した。