【2008年11月7日】
秋田城ですか。
若い頃から絵を見るのも描くのも大好きな人だった。曙山は画号でもある。
義敦は久保田藩領内の銅山の採掘量を増やして藩財政を建て直そうとし、江戸から平賀源内を技術指導者として秋田に招いた。
源内が秋田に向かう途中、角館城(久保田藩の支城)の城下の宿で一泊した。この宿の屏風の絵が美しくて素晴らしかったことから、源内が宿の主人に「この絵を描いたのは誰だ?」と聴くと、主人は
「それは小田野直武さまでございます」
と答えた。
秋田に着き、銅山の採掘技術指導を終えた源内は義敦に
「角館にいる小田野直武どのを呼んで下さいませぬか」
と頼んだ。
絵が大好きの義敦は直武の名前を知っていた。
また、技術指導をしてくれた源内にも恩返しが出来ると思い、直武を秋田に呼びつけた。
その場で源内は義敦に
「小田野どのを連れて江戸に帰りたい」
と頼んだ。
義敦は「どうぞ」と即答した。
源内が直武を江戸に連れて行く理由は絵を学ばせるためだったが、義敦の側には別の思惑があった。
それは「平賀先生との関係を保てれば、田沼様(田沼意次)とも繋がりが持てる」という思惑だ。
絵を学びたい直武、中央にパイプを作りたい義敦。利害はぴったり一致した。
江戸に着いた源内はまず直武に
「お供え餅を、真上から描いてみなさい」
と指示した。
当時の日本人画家は遠近法や陰影法といった西洋絵画の技法を知らなかった。
源内は直武にお供え餅を真上から描かせてその技法を身につけさせようとした。
次に源内は直武に仕事を与えた。当時、杉田玄白たちが製作していた『解体新書』の付図を書くという仕事だった。
この仕事を通じて直武は絵の腕前を上げていった。
源内のもとにいること5年、直武は西洋絵画(蘭画)の技法をしっかり身につけて秋田に帰国した。
そして、義敦とともに秋田蘭画を生み出した。
が、義敦と直武の幸せな日々は長くは続かない。
中央で平賀源内が不祥事を起こし、源内の庇護者・田沼意次が失脚する。
中央の情勢が秋田に飛び火する前にと、直武はこの世から消された。
死因はよくわからない。
これで秋田蘭画は壊滅した。
直武の門下生たちは怨みの矛先を松平定信とその改革に向けた。
そして、彼等は蔦屋と結託し「写楽」となる。