【2008年10月30日】
近江牛。
歴史はかなり古い。
まず、豊臣秀吉の頃に高山右近が友達だった蒲生氏郷や細川忠興に近江牛をごちそうしている。
ここで一つ、ちょっとしたことを思い出す。
蒲生氏郷もキリシタン大名で、洗礼名は「レオン」、細川忠興の妻・おたまもキリシタンで洗礼名を「ガラシャ」と言った。
この「牛肉を食べる会」のメンバーは「キリシタン繋がりだ」とも言える。
そうすると、高山右近はイスパニア・ポルトガルの宣教師等から牛肉を食べることを教わったのかな、とも思う。
この牛肉、元禄の頃の彦根藩で花木伝右衛門という人が「反本丸」(へんぽんがん)という名前で広めた。
牛肉の味噌漬けのことなのだが、ヘンテコな名称にしたのは、当時は牛肉を食べる習慣が無かったので、偏見の目で見られないようにと薬っぽい名前を付けたのだ。
花木は『本草綱目』という書物を参考に牛肉の味噌漬けを作った。
『本草綱目』には
「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒。中を安んじ気を益し、脾胃を養い腰脚を補益す」
と書かれている。
「美味しくて、からだに良い」と言っているのだ。
オレだってこれ書いてて「肉食いてえ~」ってなるもん。
そして天明の頃になると、「反本丸」は将軍家の献上物にまで出世した。
彦根藩はもう一つ、干牛肉を作っていた。
作り方について『御城使寄合留長』には
「寒中に肉を割き、筋を取り去り、清水に漬けて臭気を抜き、蒸してから糸につないで陰干しする。寒中でなければ、寒明けの頃でも塩を加えなければ痛んでしまう。温暖な季節でも塩を多く使用すれば製造出来るが、薬用としての性味が失われ、御用に立たない」
とある。
1月からの1ヶ月間で干牛肉は作られていた。
干して作るものだから、空気がカラカラに乾燥している寒中に作るのだ。
そしてそれは使う塩の量を少なくすることにもつながる。
水戸藩主・徳川斉昭が近江牛を好んで食べていて、彦根藩主・井伊直亮に「度々牛肉贈り下され、薬用にも用いており、忝ない」とお礼の手紙を書いている。