【2008年7月17日】
《異説・松平頼雄伝》
「だった」と過去形にしたのは、廃嫡されたからだ。
廃嫡そのものは、大して驚くようなことでも無い。父親との仲が拗れて「そちは廃嫡じゃ」なんてなってしまうことはよくあることだ。
だが、頼雄の廃嫡理由は尋常では無い。
「頼雄は、キリシタンじゃ」
父・松平頼純はこう言う。
ただごとでは無い。
西日本の大名だとか武士だとかがこっそりと「隠れキリシタン」をやっていたのとは事の重大さがまるきり違うのだ。
江戸時代、キリスト教は布教することも信仰することも禁止されていた。
これは、イスパニア・ポルトガルといった「南蛮国」と呼ばれる国が布教を口実にしてその国を植民地にする手法をとっていたからだ。
大御所家康がキリスト教を禁止したあとも、西日本を中心に「隠れキリシタン」は細々ながらも存在した。彼ら(彼女ら)は大政奉還の頃まで存在し続けた。
頼雄が3歳のとき、生母が病死した。
父・頼純は頼雄よりも側室の生んだ弟・頼致を可愛がる。
こころの虚しさを頼雄はキリスト教を信仰することで埋めたのではないかと思う。
西条藩は紀州藩の御連枝。少々危ない書物でも紀州藩御連枝の権威をもってすれば入手可能だったかも知れない。と、すれば、頼雄がキリシタンになることは可能だ。
頼雄にキリスト教の存在を教えたのは西条藩家老・渥美甚五郎だった。
渥美は頼雄廃嫡とほぼ同時期に頼純によって家族ごと殺害されている。そのことが、頼雄のキリシタン化は渥美を通じたものだったという証拠にも見える。
頼雄は頼純によって江戸渋谷の西条藩邸の一室に幽閉された。
その後、徳川吉宗が紀州藩主に就任すると「頼雄どのがかわいそうだ」と身柄を引き取り、紀州田辺の秋津村というところに住まわせた。
外出の自由まで認めていたところを見ると、「監禁」「軟禁」とは程遠い快適な生活だったのだろうと思う。
これが吉宗の将軍就任で事情が変わる。
後任の紀州藩主に弟・頼致が徳川宗直と名を改めて就任したのだ。
宗直は紀州にお国入りすると家臣に
と、兄の殺害を命じた。
命令は忠実に実行され、松平頼雄はキリシタンであるという事実と一緒に抹殺された。