【2008年6月27日】
細川宗孝が熊本藩を相続したとき、藩には37万両(185億円)の借金があった。
さらにそこへ参勤交代用の船・波奈之丸の建造費用が追い討ちをかけた。
そこへまた、たたみかけるように水害と蝗の発生で熊本藩財政はさらに悪化していった。
宗孝自身も「もうやめた」と何度も匙を投げたくなっただろう。
それでも在職中は質素倹約に努め、「何とか藩財政を建て直そう」と努力した。
先が見えない努力。
誰だってそれはツラいはずだ。
「楽になりたい」宗孝は何度そう思っただろう。
その宗孝を強制的に「楽にする」事件が延享4年8月15日に発生した。
この日の朝、江戸城に登城した宗孝は便所で用を足しているところを斬殺された。
即死だった。
宗孝を斬った犯人は、血まみれになって便所の隅にうずくまり、小声でボソボソと独り言を言いながら震えていた。
幕府は勝該の身柄をすぐに拘束し取り調べを始めた。
一方、宗孝の遺体は熊本藩江戸家臣団に引き取られた。
藩主が横死した場合、お取り潰しがルールなのだが、その場に居合わせた仙台藩主・伊達宗村が大声で「越中守どのはまだ息がある。早く屋敷で手当てを」と一芝居打ったので、即死だったことはごく一部の人しか知らない。
宗孝と伊達宗村の正室(カミサン)は紀州藩主・徳川宗直の娘だった。義兄弟ということになる。
この「紀州ネットワーク」が最後にモノを言った。
家重将軍の父・大御所吉宗はもともと紀州藩主。
徳川宗直は大御所吉宗の従兄弟だ。
「紀州ネットワーク」いや、「チーム紀州」と言い直してもいい。本来ならこの様な死に方をしたら例外無くお取り潰しなのだが、すんなり弟・重賢に家督相続が許されている。
「チーム紀州」の結束力の強さである。
板倉勝該への取り調べの結果、この斬殺事件の犯行動機が明らかになった。
勝該は人格破綻者だった。
そこで、本家・安中藩主板倉勝清は自分の子供を勝該の養子とし、さっさと勝該を隠退させようと考えた。
それを察知した勝該が「どうせ隠退させられるのならば」と先手を打って勝清を殺害しようとした。が、人違いで宗孝を斬殺した。何故か?
細川家と板倉家の家門が似ていたからだ。
細川の九曜星。
板倉の九曜巴。
薄暗い便所でのこと。
勝該は人違いで宗孝を斬ってしまった。
当然、勝該は切腹に処せられている。