もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

名古屋城

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【2008年6月27日】

「御三家」

時代劇なんかでよく聴く言葉だ。

尾張(名古屋)・紀伊(和歌山)・水戸の三家を指して「御三家」という。

この「御三家」は将軍の次に偉い大名だった。

家門だとか譜代だとか外様だとかいう枠組みを超えた家柄だった。そういう家柄のことを「制外の家」という。

設立過程については様々な説がある。

どの説にもそれなりの説得力があるし、読んだり聴いたりするのも楽しい。

ただ、設立理由となるとみんな一致した意見になる。

「御三家は、江戸の将軍家(秀忠将軍の血統)が断絶したときに跡継ぎを出すため」

と。

それでいえやっサンの

9男・義直に

尾張619,500石

10男・頼宣に

紀伊555,000石

11男・頼房に

水戸250,000石

を与えて「御三家」とした。紀伊と水戸の間の石高に大きな開きがあるが、実は「御三家」というのは尾張紀伊駿河(忠長)をもって「御三家」とするのが最初の計画だったとする説や、はじめから水戸は除外で江戸(秀忠将軍)・尾張紀伊をもって「御三家」としようとしたのだという説もある。

いずれの説を取っても尾張は「御三家」である。

この「御三家」の扱いに悩んだのが首席老中・松平信綱をはじめとする当時の幕閣の連中だった。

「御三家」は幕府が大っぴらに「制外の家」と認めているため、「御三家」の当主がなかなか幕府の言うことを聞かなかった。

尾張藩主・徳川義直もその一人で、そのためか家光将軍はこのあまり歳の離れていない叔父をいじめた。

が、義直もやられっぱなしではいなかった。

「竹千代様(のちの家綱将軍)が山王社に初詣に行くので、御三家の方々にもお供して欲しい」

松平信綱が義直に依頼したときのことだ。

義直は

「オレと頼宣は大納言、頼房は中納言。あのチビスケは無官じゃねえか」

と言い、「お供なんてイヤだ」と言った。

信綱は「竹千代様は上様(家光将軍)の御子。上様は征夷大将軍でございまするぞ」と言って納得させようとすると義直は

「おまえ、親の官位を持ち出すのか?そんなこと言ったらオレたちの親父は従一位太政大臣徳川家康公だぜ」

とやり返した。

一事が万事この調子。

「御三家」、特に尾張紀伊の二家はこういう傾向だった。

このやりとりのずっと後、尾張からは例のあの徳川宗春が登場する。