【2008年5月28日】
井伊直政に「島津は男の中の男」と言わせたのが烏頭坂の戦いだ。
関ヶ原の戦いは小早川秀秋の裏切りと吉川広家に対する調略が功を奏し、東軍が勝利した。
いきさつからやむを得ず西軍に加担した島津義弘は
敵陣突破
という突拍子も無い手段に出た。
僅か1,000人で数万の東軍の陣を突破しようというのだ。
島津軍にとっては絶望と背中合わせの撤退戦だった。
数が圧倒的に違うので、場合によっては全員討ち死にの可能性さえあった。
島津軍は最初から目標を
義弘の無事帰国
の一点に置いた。
壮絶な撤退戦になった。
殿軍(しんがり)を引き受けたのが義弘の甥の豊久だった。
99%戦死するであろう撤退戦。
島津家には、こんなときのために代々受け継がれた戦法があった。
捨て肝
と呼ばれるもので、「すてかまり」と読む。
これはもう本隊に合流することは考えず、殿軍はその場でみんな死んで敵を食い止めるものだ。
もう本隊には戻らないんだから、あとはひたすら敵を斬って斬って斬りまくれーッと追撃軍に向かって反転攻撃をするのみだ。
島津軍と追撃を命ぜられた井伊直政軍は烏頭坂という場所で戦闘になった。
島津豊久以下殿軍はすでに本隊合流を捨てているので、激しく井伊軍に襲いかかった。
「どっちが追撃してるんだ?」ってくらいの激戦になった。
中には「我こそが惟新義弘!討ち取って手柄にいたせ!!」と叫びながら井伊軍に突入する者もあった。
とにかく、文字では表現しきれないくらいの激戦になった。
何だかちょっと、湊川の戦いを思い出した。
義弘は無事薩摩に帰国したものの、生存者は90人ちょっと。
損耗率90%以上。
いかに壮絶な戦闘だったかがわかる。
「毛利は吉川広家に免じて、上杉は直江兼続に免じて取り潰しは許してやるが、島津は取り潰す」
と決めていた。
が、ここに直政が待ったをかけた。
「殿、島津は男の中の男!取り潰しは御容赦の程を」
と強く家康に迫った。
いのちを賭けて戦った相手のことだからこそ、直政は庇った。
一種のスポーツマンシップだ。
直政のおかげで、島津家は取り潰しを免れた。