【2008年4月8日】
大坂城って、書きやすいようで書きづらいんだよね。
だってさ、あそこ、秀吉と秀頼しかいないんだもん。城主が。
と、いうわけで、今日は大坂城代の話です。
「何故、大坂は城主じゃ無くて城代なんだ?」
そう思う人がいると思う。
大坂城は徳川幕府にとっては「イヤな思い出」の塊だ。「トラウマ」と言い直してもいい。
徳川幕府は秀頼母子をあんな形で追い込んで挙げ句に自害させた。
大御所家康や秀忠将軍にその意図が無かったとしても、結局秀頼母子は自害した。
この「イヤな思い出」の土地をどうするか?
大坂の民衆は決して徳川幕府に心服しない。そう見た幕府は最初大御所家康の外孫・松平忠明を大坂藩主にしようとした。
司馬さんの『けろりの道頓』はこの頃の大阪を書いた作品である。
「(大坂の陣の)戦災復興が終わったから」
これが理由なのだが、実際のところは『なにわっ子』が徳川幕府に心服しないことにやりづらさと嫌気がさしたので、忠明が土井利勝に「オレもう嫌んなった」と国替えを要求したのだ。
土井利勝も「大坂に城主(藩主)を置くのは無理」と判断した。
これ以後、大坂城は城代が管理することになった。
京都所司代が天皇・朝廷の監視役ならば大坂城代は西国大名の監視役だった。
城代と言っても城で寝泊まりするわけでは無く、大坂城代は大手門(追手門)の屋敷で寝泊まりしていた。
ただ、大坂城代は赴任の際、江戸城で将軍から白紙の委任状を手渡された。これは、「西日本の軍権委任」の意味も込められている。
だから大坂城代は幕府の組織図では老中の下にはなっていない。
委任された軍権を行使した大坂城代は土井利位ただ一人だ。
土井利位は大塩平八郎の乱を鎮圧する際に軍権を行使した。
大坂城代の任期はだいたい4~5年。
統一した領主のいなかった大坂は他の土地とは違う、独特な風土になっていった。