もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

熊本城

f:id:Hanzoandmozu:20191120064742j:plain

【2008年3月16日】

ああよかった。

唐津城のときは何を書くかで気ィ狂うかと思ったからな。

肥後国はもともと二分割されていて、熊本を本拠地とする加藤清正が30万石、宇土を本拠地とする小西行長が24万石を領していた。

関ヶ原の戦い小西行長がお取り潰しとなると、加藤清正が肥後一国を支配した。

清正が死に、忠広の代になると『牛方馬方騒動』と呼ばれる御家騒動が起こり、加藤家はお取り潰しとなった。

その後、細川忠利が熊本に入封した。

細川忠利には前領主・加藤清正、そして父・忠興(三斎)との比較がついて回った。

いつも比較。

来る日も来る日も比較。

忠利にとって胃の痛い日は死ぬまで続いた。忠利は父・忠興に先立ってこの世を去ったからだ。

父親との比較に苦しんだ大名は何人かいる。

武田勝頼がそうだ。

父親(信玄入道)が偉大過ぎたために押し潰された。

秀忠将軍もそうだ。

大御所家康との比較は死ぬまでついて回った。

二代目。

その家を長く安泰足らしめるために重要な存在だ。

忠利は幕府から忠興同様の信用を得た。

熊本54万石の安泰はこのとき決まった。

秀忠将軍は土井利勝と二人三脚で幕府の基礎を作った。

強固な土台を作ったのは家光将軍では無く、秀忠将軍だ。

そしてそれを土井利勝がよく助けた。

二代目には二代目の苦悩がある。

熊本城と細川忠利を思うと、そんな気持ちになった。