【2008年3月16日】
ああよかった。
唐津城のときは何を書くかで気ィ狂うかと思ったからな。
肥後国はもともと二分割されていて、熊本を本拠地とする加藤清正が30万石、宇土を本拠地とする小西行長が24万石を領していた。
関ヶ原の戦いで小西行長がお取り潰しとなると、加藤清正が肥後一国を支配した。
清正が死に、忠広の代になると『牛方馬方騒動』と呼ばれる御家騒動が起こり、加藤家はお取り潰しとなった。
その後、細川忠利が熊本に入封した。
細川忠利には前領主・加藤清正、そして父・忠興(三斎)との比較がついて回った。
いつも比較。
来る日も来る日も比較。
忠利にとって胃の痛い日は死ぬまで続いた。忠利は父・忠興に先立ってこの世を去ったからだ。
父親との比較に苦しんだ大名は何人かいる。
武田勝頼がそうだ。
父親(信玄入道)が偉大過ぎたために押し潰された。
秀忠将軍もそうだ。
大御所家康との比較は死ぬまでついて回った。
二代目。
その家を長く安泰足らしめるために重要な存在だ。
忠利は幕府から忠興同様の信用を得た。
熊本54万石の安泰はこのとき決まった。
秀忠将軍は土井利勝と二人三脚で幕府の基礎を作った。
強固な土台を作ったのは家光将軍では無く、秀忠将軍だ。
そしてそれを土井利勝がよく助けた。
二代目には二代目の苦悩がある。
熊本城と細川忠利を思うと、そんな気持ちになった。