【2008年3月15日】
「天保の改革」と呼ばれる僅か1年でダメになった改革をやった人だ。
唐津藩は表高6万石に対して実高が24万石あった。
だから、水野家は唐津に居続けたほうが豊かでゆとりのある暮らしを続けていられた。
が、唐津藩には「海防警備」という役割があり、唐津藩主は奉書加判(老中)にはなれない。
どうしても加判之列(老中)に加わりたい忠邦は浜松への移封を望んだ。
ここから、忠邦の幕閣に対する賄賂に次ぐ賄賂攻勢が始まる。
唐津藩の金庫のカネはみるみる消えていった。
忠邦は自分が老中職(国務大臣)に就きたいという理由だけで移封運動を繰り広げた。家臣から見れば、迷惑なバカ殿だ。
このバカ殿に真っ向から反対意見を述べたのが家老・二本松義廉だ。
二本松は
「唐津の実高は24万石ですが、浜松の実高は15万石しかありません。殿、どうか御再考下さりませ」
と忠邦に言った。
そんなこと言われても、「大臣病患者」の忠邦には通じない。
二本松は何度も何度も忠邦に浜松移封を思いとどまるよう言い続けた。
そして、もう何を言っても無駄だとなったとき、二本松は自害した。
自害して忠邦に抗議したのだ。諫死である。
この「大臣病患者」は希望が叶って浜松移封となった。
6万石に対して実高24万石だった唐津から、同じく6万石に対して実高15万石しかない浜松へ。
実高は減る、移封運動で金庫のカネはスッカラカン。
が、忠邦の家臣の受難はこれで終わらない。
「天保の改革」が失敗し、忠邦は老中職を罷免される。
罷免された忠邦にさらに追い討ちがかかる。
在職中の不正を追及されたのだ。
これで忠邦は隠居謹慎処分となり、水野家は1万石減知のうえ浜松から山形に飛ばされた。
山形での実高は7万石程度。
この「大臣病患者」のために水野家の家中はみんな迷惑した。踏んだり蹴ったりだった。
「二本松どのは正しかったなあ…」
水野家の連中は、みんなそう思った。