【2008年3月10日】
駿府は大御所家康が隠居所に選んだ場所だ。
ここで、大御所家康は手元に頼将(のちの頼宣)を置いて養育した。
大御所家康が少年頼将を可愛がったのは確かで、江戸の秀忠将軍は大御所家康の死後、頼将を紀州に飛ばした。
これは秀忠将軍が大御所家康に可愛がられた頼将を恐れたためだ。
代わって、駿府には徳川忠長が55万石で入封した。
関東から東海にかけてを自分の血筋で押さえようという秀忠将軍の意図である。
が、その意図は外れた。
忠長は何を血迷ったか、隠居した大御所秀忠に突拍子も無い要求をした。
「百万石か、大坂城」
どちらか寄越せ、と大御所秀忠に要求したのだ。
かつて、忠長と同じ要求を大御所家康に出して越後高田70万石を棒に振ったのが松平忠輝だった。
忠輝のときは、大御所家康は取り潰してもいのちまでは奪わなかった。
大御所秀忠もいのちまでは奪わないつもりだった。
が、忠長の正式な処分を決めないまま病床についた。
家光将軍が忠長を賜死させる意思があったかどうかはわからない。
忠長にとって不運だったのが、家光将軍の側に執政職(大老)・土井利勝がいたことだった。
利勝は忠長に処分を伝える使者に阿部重次を選んだ。阿部重次は真面目一辺倒の男で、利勝はそこを見込んで使者に選んだ。
「そこを見込んで」というのは、いかなる処分であっても整然と忠長に言い渡せるという意味だ。
忠長の幽閉先の高崎に着いた重次は、忠長とごく短い時間会見してすぐ退出した。
そのすぐあと、忠長は太刀で首を刺し貫いて自害した。
発見したのは忠長の身の回りの世話をする係の女性で、忠長の遺体は高崎で葬られた。
実際に阿部重次が徳川忠長に何を言ったかは誰にもわからない。
が、ごく短い時間のやりとりが普通のやりとりでは無かったのは、家光将軍の死後重次が殉死しているのを見ればわかる。
重次の切腹は「商い腹」などでは無く、かなり早い段階から自害を考えていたものだ。
その原因が、忠長の死である。
駿府城は忠長改易後、城主は置かれず城代が置かれた。
今、駿府公園には毎年きれいな桜が咲く。
「あれは腹切り桜なのよ」なんて悪い冗談言わないでくれよ。