【2008年2月18日☆】
大学生が外国人観光客に英語でガイド。いいことだ。
二条城は、大御所家康が豊臣家討滅を決心した場所だ。
二条城で豊臣秀頼と対面した大御所家康は、
「この若者は、生かしておいてはいけない。自分が生きているうちに始末してしまわねば」
そう思った。
大御所家康が豊臣家にあれこれ調略をかける様子は司馬遼太郎さんの『城塞』(新潮文庫)に詳しい。
二条城で大御所家康の眼の前に現れた秀頼は、決して凡庸な青年ではなかった。
だからこそ、大御所家康はなりふり構わぬ調略で豊臣家を滅亡させた。
秀頼がどんな人物なのか?
実はオレはほとんど知らない。
ただ、家康になりふり構わぬ調略をさせたくらいだから、少なくとも家康の眼から見て油断ならない青年だったのだろう。
昔、大阪城の学術調査を実施した際に秀頼のものと見られる頭蓋骨が発掘された。
頭蓋骨の耳のあたりに火傷のような痕があったことから、秀頼は難聴だったのではないかという説もある。
オレが知ってる秀頼像はそんなもんだ。
豊臣家滅亡後、二条城には城主は置かれず城番の管理となった。
幕末、大政奉還が行われたのも二条城。
徳川幕府の始めと終わりに関わったこの城に外国人観光客が来るのは面白いことだと思った。