【2008年2月5日】
「一期は夢よ、ただ狂え」
黒田官兵衛(如水)がそんな気持ちだったかどうかはわからないけれど、もし、関ヶ原の戦いが1日で片付かなかったら面白い展開があったかも知れない。これは伊達政宗にも共通している。
官兵衛は九州で、政宗は東北で、それぞれ関ヶ原から離れた地域で大暴れした。
官兵衛に天下取りの意思があったのは事実だろう。
それを物語っているのが息子・長政とのやりとりだ。
黒田長政は関ヶ原の戦いのあと、豊前中津12万石から筑前一国52万石に大幅加増された。
理由は、西軍の主力部隊のひとつである毛利軍の責任者の吉川広家を調略したことによる。
吉川広家は南宮山という場所に陣取っていたが、黒田長政に中立を約束していたので動かなかった。
吉川広家が動かなかったことですぐそばの長宗我部盛親軍も動けず、小早川秀秋の寝返りと同じくらい東軍の大きな勝因となった。
このことを徳川家康は感謝した。
家康は長政に筑前一国のお墨付きを手渡しし、感謝の言葉を述べた。
長政は感激して父・官兵衛にその話をすると、官兵衛は
「その時、内府殿(家康)はおまえのどっちの手を取ってお礼をしたんだ?」
と長政に聞いた。
長政は「右の手です」と答えた。
すると官兵衛は、
「じゃあ、おまえの左の手は、いったい何をしていたんだ?」
と言った。
「刺せたのに、殺せたのに」
官兵衛は長政にそう言いたかったのだ。
官兵衛は伊達政宗同様、「これが最後のチャンス」と思って九州で大暴れした。
が、皮肉にも息子の活躍(調略)で官兵衛の天下取りの夢は砕け散った。
ただ、官兵衛には覚めた一面があって、
「オレは太閤(豊臣秀吉)のためにあれだけ知恵を出して12万石だったのに、セガレ(長政)は吉川広家を調略しただけで筑前一国(52万石)か」
と面白がった。
黒田家が筑前に移り福岡城が竣工すると、官兵衛はかつての野心家では無くなっていた。
官兵衛は城下の子どもにニコニコしながらあめ玉を配るやさしいじいさんになった。
官兵衛の見た夢は、現代になって麻生太郎が総理大臣になることによって受け継がれた。
土地柄というのは面白いと思った。