【2008年1月5日☆】
霞城とは山形城の別称だ。
雪化粧した山形城ってのも、綺麗なモンだな。
山形はかつて最上と呼ばれていた。
それは山形一帯を最上家が領していたからだ。
最上家は義光の頃57万石を得て、東北地方では伊達政宗の次に大きな大名だった。
が、家中の統一に失敗した。
内紛から、長男の義親を殺害してしまう。
義光の死後、次男の家親が家督を継いだ。家親は、まあ頑張ったほうだった。
家親が死ぬと、年若い義俊が57万石を相続した。
最上家には、1万石級の重臣がゴロゴロいた。
年若い義俊では彼らをまとめることが出来ず、いざこざが絶えなかった。
とうとう、放っておけないくらい事態が悪化した。
幕府老中・土井利勝はこれを「最上を取り潰す好機」と見た。
まず利勝は伊達政宗に
「最上は近々取り潰しになりますから、あなたのお母様を仙台にお引き取りなさいませ」
と知らせた。
伊達政宗は秀忠将軍から信任厚い人だったので、まず利勝はその方面からの不安を取り除いたのだ。
そして、秀忠将軍にこう知恵を付けた。
「義俊がもう少し成長したら、そのとき改めて最上の地を与えるので、それまで山形一帯は幕府が預かる」
と最上家に言うように秀忠将軍に勧めた。
秀忠将軍は利勝の言う通りにし、山形57万石収公の使者に本多正純を選んだ。
このとき、本多正純も山形の地でお取り潰しを言い渡された。
最上義俊と本多正純。利勝は二人いっぺんに片付けたのだ。
もちろん、利勝は義俊の成長後に領地を返す気などさらさら無く、最上家は5,000石の高家としての存続となった。
江戸時代中頃からは、山形や棚倉は左遷大名が行く領地となった。
家治将軍の頃、田沼意次に無礼のことがあったとして、老中・秋元涼朝が上野館林から山形に飛ばされた。
もう少し時代が下ると、失脚した水野忠邦が遠江浜松から山形に飛ばされた。
山形は以後、水野家5万石の領地となった。
-主席老中から左遷大名へ-
水野忠邦は霞城の雪をどんな気持ちで眺めていたのだろう?