【2009年11月18日】
吉宗将軍と徳川宗春。
9年間に及ぶ江戸と名古屋の対立は吉宗将軍が「強権発動」して宗春を強制隠居させて決着をつけた。
徳川宗春が何故9年間にわたって幕府に抵抗したのか?
理由は2つある。
1つは次期将軍に名前が挙がった2人の兄、吉通と継友が将軍になれなかったことへの無念だ。
もう1つは宗春が「人命の尊重」と「人間の自由」を重要視したことだ。
兄・徳川継友が紀州藩主・徳川吉宗との八代将軍の座を巡る争いに敗れたのは宗春が21歳のときだった。
敗れた継友を江戸っ子は容赦無くこきおろした。
尾張には
能無し猿が
集まりて
見ざる聞かざる
天下取らざる
惣領の
筋目も今は
終わり殿
紀伊国天下
武運長久
「いい加減にしろよ」
当時松平通春と名乗っていた宗春は怒りを爆発させた。
紀州藩は水野・安藤の両付家老が積極的に動いた。加えて、加納久通・有馬氏倫のように「泥は自分が被る」と清濁併せ持った側近がいたことも大きかった。
これに対し尾張藩は成瀬・竹腰の両付家老の動きが鈍かった上に、継友の側近に加納・有馬のような者がいなかった。
尾張藩はヌルかった。
「我等は間部詮房と昵懇」
そのことで完全に状況にあぐらをかいていた。
表向きの有利さにあぐらをかいていたために、紀州藩や老中職・大奥の動きに対し油断した。
だから江戸っ子は容赦無く「能無し猿が集まりて、見ざる聞かざる、天下取らざる」とこきおろした。
宗春は「人間は自由だ」という考えの持ち主だった。これは「欲望に正直でよいのだ」と言っているのだ。
宗春は「色と欲に規制をかけるのはおかしい」と藩祖・義直の代から守られて来た遊郭建設の禁止を破って名古屋に遊郭を建設した。また、宗春自らが享保の改革の「質素倹約」に逆らって奢侈贅沢を率先して実行したため、家臣たちもみんなして奢侈贅沢をするようになった。
「名古屋バブル」はこうして生まれた。
宗春は死刑執行についても吉宗将軍に真っ向から逆らった。在職9年間、どんな凶悪犯にも死刑を執行しなかった。
「名古屋バブル」は早くに破綻した。
成瀬・竹腰の両付家老は首席老中・松平乗邑と水面下で交渉し、宗春処分と引き換えに尾張藩そのものへの処分を回避した。
宗春在職中、吉宗将軍は江戸飛鳥山にたくさんの桜を植えた。
「遊郭などでは無く、健康的に楽しめる場所を」
吉宗将軍はそう願って飛鳥山に桜を植えた。
飛鳥山には現在も多くの都民が花見に訪れる。
あの世の宗春は、飛鳥山の桜をどんな気持ちで見ているのだろうか。