【2009年10月27日】
赤埴源蔵重賢。
吉良邸討ち入りの47士の一人で、事件後に肥後熊本藩にお預けになった。
赤埴は「あかばね」と読む。「埴」が「垣」に似ていることから「赤垣(あかがき)」と書く人もいるが、これは間違い。
芝居や講談では討ち入りの前の晩に兄の家を訪れて「一緒に酒を飲みたい」と言うのだが、兄の嫁が「またどうせ銭の無心でしょう」と思い、「旦那様はいません」と冷たく追い返そうとするところに源蔵が「では兄上の着物をお借りしたい」と、兄の着物を兄と見立てて別れの酒を飲む『徳利の別れ』の話があるが、これはフィクション。
源蔵には兄はいない。
実際のところは妹の嫁ぎ先に出向き、一言別れを告げようとしたところに妹の舅が現れて
「この野郎、いつになったら仇討ちやるんだ。そんな綺麗な服着てわざわざここまで足を運ぶなんて、どういう神経してやがるんだ。この腰抜けめ」
と罵倒された。
討ち入り前の最後の別れになるので綺麗な服装で出向いたのだが、「今日、討ち入りします」と機密を洩らすわけにもいかず、源蔵は
「このたび遠方へ旅立つことになりましたのでお別れのご挨拶にと」
と言った。
舅は「そうか。達者でな」と素っ気なく一言言って盃を差し出した。
それを飲み干すと源蔵は深々と頭を下げて帰って行った。
翌朝、源蔵たちが吉良を討って大騒ぎになると
「ワシがあさはかだった。許してくれ」
と冷たくしたことを悔やんだ。
この話が変形して『徳利の別れ』になったのではないかといわれる。
赤埴家は赤穂浅野家の藩祖・長重の代から仕えていて、源蔵が仇討ちに加わるのはある意味当然のことだった。
源蔵は実は下戸だったという説もある。
赤埴源蔵、享年35。