【2009年10月23日】
共通点が多い。
まず、佐竹・島津ともに隠居が大きな影響力を持っていたことだ。
佐竹家では隠居の義重が大きな影響力を持っていたし、島津家ではやはり隠居の義久が大きな影響力を持っていた。特に島津家の場合は「両殿体制」と呼ばれ、殿様が実質2人いるようなものだった。
佐竹家も似たようなもので、関ヶ原の時に西軍に付こうとした義宣に対して隠居の義重がそれを止めた。
似たもの同士の関ヶ原後は大きく違った。
西軍に付き、烏頭坂で血みどろの撤退戦をやった島津義弘は本領安堵を勝ち取った。
これに対し、中立を守った佐竹義宣は水戸50万石から久保田20万石に減封された。
次の共通点は秋田にも鹿児島にも「秀頼生存説」があることだ。
鹿児島の「秀頼生存説」については以前『大阪城公園』で書いたが、秋田にも「秀頼生存説」はある。
大坂城落城後、秀頼は津軽を目指して落ち延びたが、津軽の手前の久保田(秋田)で佐竹家に保護されたというものだ。
この説の場合のキーワードは石田三成だ。
三成の遺児は弘前藩に仕えていたし、佐竹義宣と石田三成は親しかった。
津軽・秋田ともに「三成つながり」なのだ。
薩摩もまた「三成つながり」だ。
島津義弘は三成から輸送や流通の概念を学んだ。
昆布だしの澄んだつゆのうどん。
これは大坂で生まれた。
蝦夷地(北海道)・東北の昆布と上方のうどんのステキな出会いがあの澄んだつゆのうどんを生んだのだ。
これは三成や秀吉が輸送や流通を重視していたから生まれた。
鹿児島の「秀頼生存説」と違い、秋田の「秀頼生存説」はあまり具体的なことまでは伝わって来ない。
佐竹家が水戸から久保田に移る際、大量の「佐竹難民」が発生した。これが「秋田美人」のルーツだと言われる。
でもよ、米倉涼子は神奈川だし、それ考えると「秋田美人」ってのはあんまりアテにならんのかなとも思う。