【2009年10月22日】
歴代藩主の中で一番長生きした。
晩年、その後継者のことで御家騒動が起こった。
信寿の嫡男・信興が父に先立って病死した。信寿は信興の子・信著を嫡孫承祖させて隠居した。
弘前藩の江戸詰め側用人に大橋官兵衛という者がいた。この大橋が信著を堕落させた。
信著の酒色におぼれる様を見た信寿は
「あの孫では、弘前は持つまい」
と思った。
そこで、津軽一門である家老・隈部広当を呼んで
「あのバカ孫を隠居させて、ワシの四男・貴隆を藩主にする。手を貸してくれ」
と言った。
隈部は「かしこまりました」と引き受けた。
隈部広当。
世間一般に隈部伊織と呼ばれるこの男は弘前藩の諸葛孔明とあだ名された。
隈部はまず「早道の者」と呼ばれる連中を使って信著側の情報収集を徹底した。
次にこれもまた「早道の者」を使って信著の不行跡を弘前藩領内に広めた。「早道の者」とは弘前藩に代々仕える忍者のことだ。
「早道の者」を使った工作と同時に、隈部は藩主交代の同調者作りを進めた。が、運悪く事が大橋官兵衛にバレてしまった。
大橋は信著に報告し、信著は隈部を取り調べた。
隈部は信寿の名前も貴隆の名前も出さず
「これみな全て、それがしの一存にてやったこと」
と言い張った。
隈部は謀反人として切腹させられた。
信寿はこれを聴いて
「隈部…すまなかった…ワシが甘かったから、おまえを死なせた」
と涙をこぼした。
隈部切腹の翌年、信寿は信著の眼の前で信著の子・磐松を抱きしめて可愛がった。「かわいいかわいい」と目を細めて曾孫を可愛がった。
信著は磐松を抱っこする祖父を見て何を考えているのかすぐにわかった。
たとえ祖父と孫であれ、「藩」という組織のためならばいのちを奪うことがあるのが江戸時代だ。
「毒飼いまである」
そう思った信著は大橋官兵衛を追放した。大橋は行方不明となった。
その後は酒色に耽った生活を改め真面目に藩政を執ったが後の祭りだった。
信寿は隈部の死を許さなかった。
信著は弘前城で急死した。死因はいちいち書かない。
信著の死後、6歳の磐松が跡を継いだ。
津軽信寧だ。