【2009年10月22日】
正徳5年7月28日。
夕食後、突然吐血してそのまま死んだ。まだ25歳の若さだった。
徳川吉通は八代将軍の最有力候補だった。
家宣将軍は死に際し、
「我が子鍋松はまだ4歳だ。もし、鍋松が成長せずに夭折するようなことがあった場合は、尾張吉通をもって八代将軍とすべし」
と言い残して死んだ。
この遺言のことは幕府上層部はみんな知っていた。また、幼児鍋松(家継将軍)が病弱であることも、幕府上層部は知っていた。
もし、家継将軍が夭折した場合、どうなるか?
吉通が八代将軍に就任する。吉通が将軍に就任する根拠は家宣将軍の遺言だ。それを根拠とする以上、側用人制度は続行ということになる。
首席老中・土屋政直以下老中職の面々は
「もともと、幕政は我等老中職の者が執って来た。それが今では側用人が幕政を執っている」
と不満を持っていた。
加えて、新井白石の存在が側用人制度及び「甲府グループ」に対して決定的な敵意を植え付けた。
家宣・家継両将軍の側用人を務めたのが間部詮房だった。土屋政直は側用人制度は嫌ったが間部詮房自身まで嫌わなかった。が、「御用学者」として「甲府政権」の中枢に座った新井白石に対しては敵意を剥き出しにした。
「論争の鬼」
新井白石はこんなあだ名で呼ばれた。論戦になったら相手をコテンパンにやり込めてしまうのだ。
白石はやり込められた側の気持ちを理解しなかったため土屋たちから恨みを買った。白石の存在はやがて「甲府グループ」全体に対する敵意となった。
「甲府グループ」というのは家宣将軍が甲府藩から将軍家に入った際に連れて来た連中のことで、因みに、綱吉将軍が連れて来たのが「館林グループ」だ。
「側用人の手から幕政を取り戻したい」
土屋がそう願っても、「甲府寄り」の吉通が八代将軍に就任した場合、また側用人制度は続いてしまうのだ。
確たる証拠は無い。
だから、毒殺と断定出来ないが、土屋相模守政直は「絵島・生島事件」の仕掛け人だ。
そのことを思ったときに、土屋が人を使って吉通を毒殺した可能性はかなり大きい。
吉通については「酒浸り」だとか「不摂生」だとか噂があるが、実際のところは吉通は口にする酒量はかなり少なかったうえに、規則正しい生活を送っていた。
そんな吉通が、晩ごはんのあとに突然吐血して死んだのだ。おかしいではないか。
吉通の死後、八代将軍についての議論が幕府上層部で活発になった。「もう吉通はこの世にいない」土屋たちにとって、それは重石がとれたようなものだった。
土屋は紀州藩主・徳川吉宗との間に「側用人制度の廃止」の約束を取り付けると、吉宗を八代将軍に就けるべく陰に日向に活動した。
吉通、五郎太と藩主が二代立て続けに急死したあと、尾張藩は吉通の弟・松平通顕(徳川継友)が相続した。
が、継友は吉宗や土屋の敵ではなかった。
八代将軍を巡る吉宗・継友の争いは、土屋の意を受けた水戸藩主・徳川綱條が決着をつけた。
綱條は
「一つ、吉宗どのは権現様から見て曾孫(ひまご)。継友どのは玄孫(やしゃご)。一つ、家宣公の御遺言に吉通どのの名はあったが、継友どのの名は無い」
と主張し、土屋たちはこの主張を支持した。
吉通急死は尾張藩にとって痛恨の一撃となった。
のちにこの痛恨の一撃の逆襲をするのが徳川宗春だ。