【2009年9月11日】
もともと羽柴秀俊と名乗っていたこの青年は、秀吉の妻・寧々の甥だ。
秀秋は、ちょっと性欲の強い少年だった。
女性の着替えを覗き見するような「おバカ少年」だった。
7歳で丹波亀山10万石を与えられた。
もうこの頃から性的好奇心旺盛なおバカだった。
「おなごが、着替えておる」
丹波亀山城の女子更衣室の襖をほんの少し開けて、秀秋は興奮しながら女性の着替えを覗いていたが、秀秋は誤って物音を立ててしまった。
「何者!」
女性が部屋から出て来ると、そこには7歳の殿様がいた。
「何者!」と怒鳴られた秀秋は狼狽と気まずさが一緒になり、
「うがーっ!!」
と奇声をあげて逃げ出した。
このことを聞いた秀吉は
「オレの血縁には、まともなのが小一郎(秀長)しかいない」
と嘆いた。
このあとも少年・秀秋の覗き見等の奇行は続いた。
秀吉はそれでも「寧々の甥だから」と思い、何とか立派な若者にしてやろうと思った。
ちょうどこの頃、安芸広島の毛利輝元に子供がいないから秀吉の血縁から誰か一人養子に送り込もうという話が持ち上がった。
中国120万石。
もしこれを秀吉の血縁が相続したら、秀吉の死後徳川家康が簒奪行動に出たとしても太刀打ち出来るという面から出た話だった。
これを言い出したのは黒田官兵衛だった。
秀秋はこの養子案の候補者になった。
「あのびっこめ。ろくなことを考えない」
隆景はこう言った。
びっこというのは官兵衛が歩行障害だったので隆景はそう呼んだ。
毛利家は鎌倉時代以来の名家で、秀吉のような百姓の出では無いのだ。だから隆景は官兵衛に対して「ろくなことを考えない」と言ったのだ。
「毛利家の跡継ぎが百姓の縁続き」
隆景はゾッとした。
同時に「断じて認めてはならぬ」と意を決した。
隆景は官兵衛のもとを訪ね、
「実はのう官兵衛どの。我が小早川には跡継ぎがおらぬのよ。そこでだ、秀秋どのを小早川の養子にもらえぬかのう」
と申し出た。
官兵衛は秀吉に報告すると秀吉は大いに喜んだ。
「隆景どのがもらってくれるなら、アレ(秀秋)もしあわせよ」
養子縁組の話はあっと言う間にまとまった。
隆景にとっては毛利本家の血筋を守るために毒を飲む気持ちで切り出した養子案だった。
官兵衛が養子縁組がまとまった挨拶に来たとき、隆景は
「官兵衛どのは、頭の回転がちと早過ぎるな」
と皮肉った。
こうして覗き少年・秀秋は小早川家を相続し、筑前名島30万石の大大名に出世した。
秀吉の死後、秀秋は関ヶ原で寝返って東軍を勝利に導いた。
見返りは備前・美作、それに備中の一部を加えた52万石だった。
岡山に転封してすぐ、秀秋は死んだ。
一揆の手にかかって殺害されたのだとも、脳の病気で死んだのだとも言われる。
この覗き少年はハタチで一生を終えた。