もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

松山城

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【2009年9月10日】

伊予松山藩忠臣蔵事件のあと、10人の浪人の身柄を預かった。

大石主税

堀部安兵衛

菅谷半之丞

千馬三郎兵衛

中村勘助

木村岡右衛門

不破数右衛門

岡野金右衛門

貝賀弥左衛門

大高源五

このうち、吉良邸討ち入りを12月14日に確定させたのが大高源五だった。

大高源五は江戸では脇屋新兵衛と名乗って潜伏していた。

この頃江戸に荷田春満(かだのあずままろ)という国学者がいて、源五は荷田のところに通っていた。

荷田は江戸で侍たちに歌学や神道を教えていた。「子葉」という俳号を持っていた源五が荷田のもとへ歌学を受講しに行ったとしても、不自然では無い。

源五の俳句の才を見た荷田は山田宗偏という茶人を紹介する。宗偏は吉良家に出入りのある茶人だった。源五は宗偏から情報を聞き出すために宗偏と親しくするようになった。

そしてついに、源五は宗偏から決定的な情報を聞く。

「吉良様は、12月14日はご在宅だ」

と。

浪人たちに与えられたチャンスはたったの1回。「空振り」は絶対に許されない。

だからこそ、「この日に確実に在宅する」という情報が必要だった。源五はその情報を手にした。

源五からの報告を聞いた大石は

「討ち入りは12月の14日。各々、支度に抜かり無く」

と言った。

宗偏の情報は正確だった。

浪人たちは吉良の首を取って見事本懐を遂げた。

松山藩は、初め預かった10人を罪人扱いした。

が、江戸っ子たちから批判され、松山藩は待遇を改善した。

切腹の日、源五は一番最後に切腹した。

源五は辞世を遺している。

梅でのむ

茶屋もあるべし

死出の山

味のある辞世だ。

武士を捨て俳人として生きる道もあっただろうに、源五はそうせずに切腹という形で人生を終わらせた。

死出の山にある茶屋には、大石たちがいたのだろうか?