【2009年9月7日】
「冷酷なマキャベリスト」
細川忠興はそんな眼で見られることが多い。
自家保存のために次男・興秋を切腹させ、関ヶ原の前には親友・前田利長を裏切っていえやっサンにすり寄った。このため細川・前田両家は100年にわたって不仲だった。
こんな忠興だが、織田信長から受けた恩は忘れなかった。
忠興は若かりし頃、父・藤孝(幽斎)とともに丹後国攻略を命ぜられた。
当時の丹後半島は中世的な雰囲気の色濃く残った未発達地域だった。
権威と言えば室町御所から派遣される国主様(守護)で、「織田信長」なんて言ったところで誰も従わないのだ。
「織田信長?ワシらは国主様が偉いのは知っとるが、そんなヤツは知らん」
丹後の豪族たちは細川軍に対して徹底抗戦した。
「あの田舎者どもは、まともなやり方では駄目だな」
藤孝は策をもって丹後攻略をすることを決めた。
だまし討ちに次ぐだまし討ち。
忠興は
「こんなことを続けていたら、気が狂ってしまう」
と思った。
精神を害してしまうかと思うくらい、凄惨なだまし討ちの連続だった。
やっとのこと丹後一国を斬り取った藤孝・忠興父子は信長に報告に行った。「斬り取り勝手」織田軍団株式会社はそういう組織だったので、丹後一国は細川家に与えられた。
このとき信長は
「丹後は親父ではなく、セガレに与える」
と言った。
忠興は落涙した。
凄惨なだまし討ちに次ぐだまし討ち。
発狂しそうなのを何とか耐えて斬り取った丹後一国。
「御屋形様は、見ていて下さった」
忠興はそう思った。
信長が本能寺で死ぬと、忠興は月命日の精進落としを忘れなかった。これは忠興が死ぬまで続いた。
大坂の陣のずっとあと、75歳の忠興は京の大徳寺に信長の墓参りに訪れた。
真夏の炎天下の中、75歳の忠興は墓参りをしたのだ。
細川家はすでに忠利に代替わりしていて、忠興はご隠居様だった。領地も丹後宮津から肥後熊本に移った。
「振り出しはあくまで丹後」
忠興は初心を忘れなかった。