【2009年7月23日】
石川康長。
信濃松本8万石の大名だ。
彼はちょっと面白い経歴を持つ。
康長の父親は石川数正という人で、もともとは酒井忠次とともに徳川家の軍事担当者だった。
この数正が長久手の戦いのあと、突然徳川家を脱走し豊臣家の家臣になった。豊臣大名になった数正は、はじめ大坂の膝元である河内国に8万石を与えられ、次いで信濃松本10万石を与えられた。
このことはいえやっサンに大きな衝撃を与えた。数正は軍事担当者なので秀吉に徳川軍の軍制が筒抜けになってしまうのだ。これでいえやっサンは軍制の変更を余儀無くされた。今までの軍制を捨てて武田家の軍制に変えた。
いえやっサンの怒りは腹の中で蓄積された。
が、いえやっサンは、すぐには報復をしない。これはいえやっサンの性格によるものだ。
数正のときは数正の死後、康長に報復した。
関ヶ原の戦いのあと、徳川家は本多正純のグループと大久保忠隣のグループが長年派閥争いを続けていた。
石川康長は大久保グループで、大久保グループの中心的存在である大久保長安の息子・藤十郎に娘を嫁がせていた。
康長本人はこれといって積極的に大久保グループとして行動していないのだが、婚姻関係がある以上どうしてもその眼で見られてしまう。
大久保グループに陰りが見え始めるのは、大久保長安が卒中のため死んだためだ。
酒好き・女好き。
「不健康ビジネスマン」の典型だった長安は、屋敷でオンナのからだをいじくりながら酒を飲んでいたら発作を起こし、そのまま死んだ。
捜索結果には
大久保石見守、邸宅に金銀の不正蓄財あり
とあった。
いえやっサンは
「不正蓄財とは許せん!息子ども全員ひっ捕らえて切腹させよ!」
と命じた。これで長安の家は断絶した。
さて、石川康長である。
いえやっサンは腹の中で醸造させた数正に対する怒りと憎しみをここで放出した。
と命じた。
だが、本多正純がこれを止めた。
正純は「連座で罰するのはわかりますが、いのちまで奪うのはやり過ぎでございます」と言っていえやっサンを止めた。
正純はいえやっサンと違い数正・康長父子を「昔の同僚」と見ていたためだ。
いえやっサンは正純の意見をしぶしぶ容れて松本藩お取り潰し・康長は豊後佐伯に流罪という処分にした。
康長は佐伯で一生を終えた。
いえやっサンが「生涯許さない」として腹の中に怒りと憎しみを醸造させたものに、福島正則による「伊奈図書事件」がある。
この件に関しては、いえやっサンは死ぬ間際に土井利勝を枕元に呼んで「あの男だけは、ワシの死後取り潰せ」と言い残している。