【2009年7月13日】
秀吉と寧々。
世間一般に「おしどり夫婦」と呼ばれる。
秀吉が長浜城時代に、寧々以外の女性と関係を持ち、男の子が出来たことはまあまあ知られている。よく知られているとまでは言わないが、まあまあ知られている。
この女性は今日残存している史料から「南殿」と呼ばれていたことがわかっている。が、本名がわからない。
どんなオンナだったんだ?
それさえもわからない。
ただ、彼女は石松丸という男子を出産し、その子は6歳で死んだ。わかっているのはそこまでだ。
秀吉はこの石松丸に
秀勝
という名前を付けている。
そしてのちに養子をもらった際、やはり秀勝と名付けている。
何でだろう?
石松丸がよっぽど可愛かったからか?
確かにそう考えるほうが自然かも知れない。
じゃあ何故、そんなに可愛い我が子とその生母についての史料がわずかしか残っていないんだ?
この南殿と石松丸に関しては寧々が一服盛って殺害したという説がある。
ただ、根拠が薄い。
女性が女性に毒を盛る場合、毒を盛る女性にも子供がいて、その子を跡継ぎにしようとして犯行に及ぶのが普通である。
しかし、寧々はみなさん御存知のように子供を生まなかった。毒を盛る動機が見当たらないのだ。
そうなると、何か不慮の事故で死んだのかとも思う。記録に残すことさえ憚られるような不慮の事故。無いとは言い切れない。
秀吉のことだ。おそらく石松丸が無事成長したら寧々の養子として豊臣家を継がせたであろう。
そうなった場合、豊臣秀勝といえやっサンによる大坂の陣だったかも知れない。
6歳で死んだ男の子。
長浜に眠る石松丸は秀吉の晩年と豊臣家の滅亡を見ないで済んだ。
幼くして死んだこの子にとって、それが唯一の救いかも知れない。