【2009年7月3日】
奥 清兵衛。
世間一般に「奥 東江」の名で知られる学者である。
清兵衛はもともと近江国(いまの滋賀県)蒲生郡小口村というところで医者をやっていた。
若い頃に医学と儒学を学んでいるので学者としても通用する人だった。
この清兵衛が唐津に行くきっかけになったのは、志摩鳥羽藩主・土井利益との出会いだ。
土井利益は土井利勝の子孫で下総古河7万石の藩主だったが、綱吉将軍の命令で古河から鳥羽に国替えになった。
志摩国は一国で3万石しか無く、7万石には足りないので鳥羽藩は近江国(いまの滋賀県)に飛び地を持っていた。
近江に飛び地を持っていたことで利益は清兵衛のことを知ることが出来た。
鳥羽藩の領民が
「小口村の奥 東江先生は素晴らしいお方だ」
と口々に言うので利益は興味を持った。
利益は清兵衛を鳥羽城に呼びつけずに自ら小口村に出向き、清兵衛に頭を下げた。
「学問は国の要。どうか鳥羽藩のために私と汗を流して欲しい」
利益は高飛車に出るでも無く、卑屈にするでも無く、「あなたが必要だ」と直球を投げた。
この直球を清兵衛は受け止めた。
「唐津に学問を根付かせよう」
利益はそう思った。
そこで利益は清兵衛を藩医や儒官として用いるのでは無く、郡奉行として行政の現場に立たせて「実学」を広めるやり方を取った。「机上の学問」では無くて「生きた学問」を広めようとしたのだ。
清兵衛は利益の意図をよく汲み取った。
飢饉の時は藩庫のコメを放出し、間引きを禁じて貧困の者にはコメを支給した。「机上の愛民」では無くて「実践の愛民」を広めたのだ。
清兵衛は鳥羽同様、唐津でも領民から慕われた。期待に応えた清兵衛も見事なら、清兵衛を見出した利益もまた見事だった。
時が流れ、清兵衛の母親が故郷で病に倒れると、清兵衛は利益の許可を得て故郷に帰った。
が、清兵衛は看病疲れから母親のあとを追うようにして死んだ。
死に際し清兵衛は
「利益公の御厚恩、黄泉に行っても忘れませぬ」
と唐津城の方角に深々と一度頭を下げ、そして息を引き取った。