【2009年6月11日】
鍋島直正。
肥前佐賀35万石の国持大名で、世間一般に「鍋島閑叟」の名で知られるお殿様だ。
面長で、ちょっと眼がとろ~んとしてて、眉毛がぶっといこのお殿様は日本で初めて
アームストロング砲
という兵器を製造したことで知られる。
これはもともとイギリスのアーム社というところが開発した後式砲(後ろから弾を込める砲のこと)で、注文が殺到するくらい評判が良かった。
直正がこれを「作ろう」と思い立ったのが1839年のこと。この年はアヘン戦争の前年にあたる。
清国国務大臣・林則徐がイギリス商船が持ち込んだアヘンを溶解処理したことで、もはや清・英両国の戦争は避けられないだろうという情報が長崎のオランダ人から伝えられたのだ。
佐賀・福岡の両藩は江戸時代を通じて長崎警備という、カネのかかる厄介な役目を負わされていた。
その代わり、参勤交代は「江戸詰半年・国許一年半」だった。
ただ、この長崎警備役のおかげで佐賀藩は幕府よりも早く、オランダを通して世界情勢を知ることが出来た。
日本がイギリスに侵略された場合、やはり武器の優劣は大きな要素となる。直正はそう思った。そして清国がボコボコにやられて南京条約を締結させられるにいたってアームストロング砲製造を構想から実行に移した。
やがて佐賀藩で製造されたアームストロング砲は戊辰戦争で使用され、朝廷軍の貴重な戦力となった。
しかし、アームストロング砲が日本で活躍したのはこれくらいである。
アームストロング砲は実はこの頃には
ダメ兵器
の烙印を押されていたのだ。
薩摩藩とイギリスの間に薩英戦争が起こると、イギリスはアームストロング砲で鹿児島を攻撃した。
21門のアームストロング砲が一斉に火を吹いた。365発が発射されたが、その間28回も発射不能になったばかりか、発射の際の事故で砲員が死亡する有り様だった。
このことが知れ渡り、アーム社には発注キャンセルが相次いでアームストロング砲は兵器の世界から消えた。
実際にはあまり役に立たなかったが、国防意識から生まれたアームストロング砲は国を思う気持ちの産物だったのかな、と思う。