【2009年6月3日】
細川忠興は関ヶ原の戦いが終わったあと、「これで徳川の天下が確定したな」と思った。
それから忠興は自家保存のための手を打ち始める。
忠興が考えた自家保存の手とは、当時徳川家に人質に出していた三男・忠利に細川家を継がせることだった。人質というのは弱い立場であるばかりでは無い。人質はその家の外交官の役割を果たす場合がある。情報を取る役割や相手の重役クラスとの付き合いも人質の役割だ。
忠利は人質として顔も名前も徳川家に売れている。それは徳川家は忠利のことをよく知っているという意味でもある。
忠興は先々を考えて「忠利を跡継ぎにしたほうがいいな」と思った。そしてそれを実行するための手を打ち始める。
まず、長男・忠隆を追放した。忠隆は嫡子だったが、忠興は忠利を跡継ぎにするために忠隆を追放した。
追放するために、まず忠隆の妻・千代を攻撃した。千代は前田利家の娘で、関ヶ原のときは忠興の妻・珠(ガラシャ)とともに大坂屋敷にいた。
大坂屋敷が石田軍に包囲されたとき、千代は珠とともに自害しようとしたが、このとき珠が
「あなたは、死ななくてもいい」
と言って小笠原少斎に命じてこっそり逃がした。
逃げた千代は加賀に戻った。
このことを忠興は責めた。
「姑がその場で自害しているのに、嫁の千代がコソコソ逃げて生き延びているのは何事か!」
と怒鳴り、忠隆に向かって
「そんなダメなオンナは離縁せえッ!!」
と千代との離縁を迫った。
忠隆は千代と円満な夫婦関係だったので
「いやです。離縁はしません。千代は悪くありません」
ときっぱり言い切った。
これが忠興の「芝居」で、忠隆は必ず千代を庇うだろうと読んでいた。忠興はここでたたみかけた。
「父たるこの身に従えぬのなら、そちは廃嫡じゃ!」
と言い、忠隆を追放した。
次いで忠興は次男・興秋に
「おまえ、江戸に人質に行ってくれ」
と言った。興秋は
「江戸には忠利がいるではありませんか」
と言い返すと、忠興は
「小倉39万石は忠利に継がせる。おまえは黙って江戸で人質になれ」
と言い、江戸に行かせた。
が、興秋は人質になることを不服とし、江戸行きの道中で脱走した。そしてあろうことか大坂城に入って豊臣方として戦ったのだ。
忠興は忠利を跡継ぎにするために忠隆・興秋を相次いで片付けた。
これは小倉39万石を守るための「遊泳」なのである。父・藤孝ゆずりの「遊泳上手」を発揮したのだ。
大坂城落城後、興秋は身柄を細川家に引き渡された。いえやっサンは忠利が跡継ぎということで細川家には甘く、忠興に対して
「興秋どののことは、もう済んだこと。ワシは気にしておらぬ」
と言い、いのちまで奪わなくてもよいとした。
が、忠興は「念押し」を忘れない。忠興は興秋を無理矢理切腹させた。これで幕府の細川家に対する信用は揺るぎないものになった。
のちに細川家は豊前小倉39万石から肥後熊本54万石に加増された。
このとき家光将軍は
「越中守(忠利)だからこそ、信じて肥後を与えたのだ」
と言っている。