【2009年5月12日】
限りあれば
吹かねど花は
散るものを
心短き
春の山風
これは蒲生氏郷の辞世の句だ。
後世、幸田露伴等が絶賛した句なのだが、これが会田雄次先生の手にかかると
「誰かにいのちを矯められた、無念の句」
となる。
蒲生氏郷には毒殺説が根強い。
確かに、曲直瀬玄朔の書き残した氏郷のカルテには病死とある。だから今日毒殺説は否定される方向にあるが、果たしてそうか?
毒殺説の犯人は秀吉だ。
秀吉が氏郷を警戒して一服盛ったというのが毒殺説の話の筋だ。会田先生もこの説を取っている。
氏郷は会津若松城主になる前は伊勢松阪城主だった。
松阪12万石から会津若松92万石へ。それでも氏郷は不満だった。
「たとえ12万石でも、松阪にいれば天下が狙えるものを…」
会津若松で氏郷は城の柱に背もたれて涙を流した。
これが、秀吉の耳に入った。
ただでさえ氏郷のその能力と人望を警戒していたところに、この発言を知ってしまう。秀吉は以後氏郷をその所見から見るようになった。
そして秀吉にとって決定打となる発言を氏郷はしてしまう。
「唐入り」(朝鮮出兵)を発令した秀吉のことを氏郷は
「猿め、気が触れたか」
と批判した。
この発言が秀吉の知れるところとなり、秀吉は腹を固める。「殺してしまえ」と。
秀吉はいえやっサン同様、諸大名の言動には眼を光らせていた。
氏郷がそれに気が付かなかったとは思えないが、結果的に氏郷のいのちを縮めた。
ただ、氏郷が仮におとなしくしていたとしても、秀吉は何らかの形で氏郷のいのちを奪ったのだろうと思う。
秀吉は「豊臣家の天下を簒奪するのはこの三人」と見ていた。だからこそ、氏郷は会津、官兵衛は中津、いえやっサンは江戸と京坂から遠いところにトバされた。
こんな氏郷だからこそ、もし長生きしたら?と想像してしまうのだ。