【2009年4月22日】
島原の乱は島原藩の南半分の地域の人たちが起こした反乱だが、総大将の益田時貞は天草地区の出身だ。だから彼のことを「天草四郎」と呼ぶ。
天草地区に大矢野島というところがあり、益田時貞はそこで生まれた。天草地区はもともと小西行長の領地で、小西がキリシタン大名だったことから領民にもキリシタンが多かった。
関ヶ原のあと小西家がお取り潰しになると、代わって唐津藩主・寺沢堅高が天草地区の領主となった。
天草地区の石高は実高2万石。ところが寺沢堅高は何を血迷ったのか「天草地区は4万石」として課税したのだ。
年貢が未納になった農民は「蓑踊り」という処刑方法で殺害された。
これは農民を生きたまま蓑でくるみ、縄で縛って吊し、蓑に火をかけて焼き殺す残虐な処刑方法だ。この「蓑踊り」は天草地区のキリシタン弾圧にも適用された。
これが隣の島原藩になると、キリシタンの手足の指の切断は当たり前。生きたまま炭火の上でバーベキューにしたり、同じく生きたまま雲仙の火口に投げ込んだりした。キリシタン弾圧は幕府の基本方針だったが、唐津藩の天草地区での弾圧と島原藩の弾圧はあまりに残虐過ぎた。
唐津・島原両藩に共通していたのが重税だった。
まともな税率を遙かに逸脱した税率で、領民には餓死か処刑かの二者択一の状態だった。
そしてそれが天草地区に飛び火した。
大矢野島の領民が大矢野島奉行・石原太郎左衛門のもとに大挙して押しかけて
「お奉行さま、これからはキリシタンの世の中になるんです。だからお奉行さまもキリシタンに改宗しましょう」
とキリシタンになるように迫った。
石原は
「もし、おぬしたちの言うような世の中になるのならば、まず幕府から我が殿(寺沢堅高)に御命令があろう。ワシがキリシタンになるのはそのあとにする」と言い、その場では波風立てずに領民たちを帰した。
石原は領民たちを帰したあと、事の次第を唐津城に通報した。
唐津城では寺沢堅高は江戸詰めで不在だったが、国家老の判断でキリシタン弾圧軍として1,500人を大矢野島に派兵した。
これがいけなかった。
大矢野島の領民は「寺沢堅高、何するものぞ!」と武装蜂起した。
武装蜂起した領民の中には「小西浪人」や「加藤浪人」が数多く入っていて、一揆というより反乱軍と言ったほうが正確だった。
この反乱軍の総大将が16歳の少年・益田時貞である。
が、富岡城はなかなか落ちない。
そのうちに唐津に帰国した寺沢堅高が一軍を率いて富岡城救援に向かっていること、幕府軍が派遣されることがわかると、反乱軍は島原の一揆勢と合流し有明海を渡って原城という古城に立て籠もった。
反乱軍は兵糧が尽きてもなお頑強に抵抗した。
信綱は総攻撃の時期を計っていたが、戦死した反乱軍の兵士の腹を裂いて胃の内容物が海藻や草花しかないことを確認すると、信綱は総攻撃を命じた。
信綱は山田右衛門作という人間を除いて反乱軍37,000人全員を殺害した。
益田時貞は首を討たれて後日晒された。
山田は「事情聴取のため」いのちを助けられた。
のちに松平信綱は島原の乱平定後、家光将軍から賜った感謝状について
「私の死後、焼いて私の遺体に振りかけよ。人目につくようなことがあってはいけない」
と言い残し、遺言は忠実に実行された。
だから家光将軍の感謝状に何が書かれてあったのかは誰にもわからない。
最後に、寺沢堅高について触れておく。
寺沢堅高は島原の乱平定後江戸に呼び出され、所領12万石のうち天草地区の4万石を没収する処分を受けた。
堅高はこの少しあとに発狂乱心し、江戸で自害した。
堅高に子は無く、寺沢家はお取り潰しとなった。