【2009年4月15日】
秀吉が一番輝いていた時期は長浜城時代だったのかな?と思う。
総大将という者は、最大最良の演技者でなければならない。
羽柴藤吉郎は見事それをクリアした。
まず、藤吉郎は「陽気さ」を演じた。
「ネアカ」を演じたのだ。
誰だって「ネクラ」よりも「ネアカ」のほうに集まっていく。藤吉郎はそれをよく知っていた。
次に藤吉郎は「誠実さ」を演じた。
これは命懸けの演技だった。
まず、「金ヶ崎崩れ」のときに殿軍(しんがり)を引き受けたことだ。これには信長のみならず、日頃から仲の悪かった柴田勝家でさえ驚いた。
もちろん、藤吉郎には生きて帰る計算があって殿軍を申し出たのだ。
朝倉軍があまり本気で戦っていないことに藤吉郎は気付いていた。
信長は殿軍の申し出に
「切なる忠節浅からず」
と感動した。
藤吉郎の計算通り、大きな損害は出さずに信長のもとへ帰った。
が、信長は殿軍という一番危険で一番みんなが嫌がる仕事をやったことで藤吉郎に対して大きな信用を与えた。
藤吉郎は「信用を勝ち取るには」を考えて殿軍を引き受けたのだ。
この「誠実さ」は「中国大返し」のときにも発揮された。
信長死す、の報に触れた藤吉郎はワーワー泣いた。
黒田官兵衛が悪い足を引きずりながら
「殿、これは天下取りの好機!何をぐずぐずしているのです!!」
と言った。
そんなことはわかりきったことだった。
が、秀吉は「誠実さ」を徹底させたのだ。
もしここで官兵衛の言葉に「うん。そうだ。おまえの言う通りだ」などと相槌打ったらその瞬間から「忠臣・羽柴藤吉郎」は「簒奪者・羽柴藤吉郎」として後ろ指をさされてしまうのだ。
ついでに言うと官兵衛はこの発言がもとで藤吉郎に警戒され、以後は遠ざけられた。
そして明智討ちのあと、藤吉郎の天下取りドラマはクライマックスを迎える。
「世間を納得させる演技力」
清洲会議で信長の嫡孫・三法師を膝に抱いた藤吉郎は居並ぶ諸将を前に
「皆の者、今日からこの三法師様が織田家の当主ぞ!」
と高らかに宣言した。
秀吉には織田家に仕える気などさらさら無い。
が、これをやることによって、あとあと世間から「後ろめたい簒奪者」という目で見られなくて済むのだ。
「陽気さを演じる」
「誠実さを演じる」
その演技力は
「世間を納得させる演技力」
羽柴藤吉郎、見事天下を取った。