【2009年4月14日】
城山公園って、日本中にいくつかある。
今日は涌谷城について書く。
寛文11年3月27日正午過ぎ。
江戸城大手前の大老職・酒井忠清の屋敷で仙台藩の藩政問題の評定(裁判)が行われ、評定に呼び出された仙台藩の4人の重職に尋問が行われた。
事件は、この尋問のあとに起こった。
尋問を終えて再度の陳述を酒井家の人間に懇願し断られた仙台藩家老・原田甲斐宗輔がふらりと立ち上がり、
「おのれめ故!」
と叫び仙台藩涌谷領主・伊達安芸宗重の首を背後から脇差で斬った。
「せがれめ!」
宗重は脇差を抜いて宗輔の股のあたりを斬って応戦する。
宗輔は脇差を握り直して宗重を再び斬る。
宗重はこれで絶命した。
騒ぎに気付いた酒井家の家臣が駆けつけて宗輔を取り押さえ脇腹を太刀で串刺しにして討ち取った。
酒井家家臣は誰が敵で誰が味方かわからず白刃を振りかざした。
そのため宗輔の刃傷とは関係の無かった柴田外記朝意が巻き添えをくって斬殺された。
評定の場は一転して流血劇場となった。
と、同時に伊達綱宗隠居から11年続いた伊達騒動はこれで終結した。
「おのれめ故!」
口語訳すると「おまえのせいで!」。
宗輔がいうところの「おまえのせいで!」、これを読み解かなければ伊達宗重殺害の動機がわからない。
伊達騒動は11年間のいろんなトラブルが重なったものだが、今日は伊達宗重に関係する部分だけ書く。
この涌谷領の隣に同じく仙台藩一門の伊達宗倫が治める登米領があった。
問題は、涌谷領と登米領の境界線争いで原田宗輔が不当に涌谷領を削ったことだった。
領地を削られる。
怒った宗重は宗輔に苦情を立てたが却下される。
背景には宗輔の親分・伊達兵部宗勝の匙加減があった。
伊達宗倫は宗勝の兄・忠宗(仙台藩二代藩主)の息子、宗勝にとっては甥にあたる。遠い親戚の宗重よりも甥のほうに肩入れするのは自然なことだった。
幕府介入のもと取り調べが始まり、取り調べが進むにつれ宗勝-宗輔ラインは不利になっていった。
そして追い込まれた宗輔は「おのれめ故!」と宗重を斬った。