【2009年4月9日】
「吉宗公、不倶戴天」
(吉宗公とともに天を戴かず)
越前丹生藩主・松平頼方が綱吉将軍から片諱を与えられて「徳川吉宗」として紀州藩を相続して間もなく、事件は起こった。
前藩主・徳川頼職の近臣だった内藤忠元・渥美久忠・三井高清の3人が髷を切ったのだ。
『武家諸法度』では殉死と剃髪を禁止している。
それでもこの3人は髷を切った。
明らかに何らかの意思表示だということがわかる。
何の意思表示なのか?
3人が髷を切った時点で徳川吉宗はまだ紀州藩の人事をいじっていない。
つまり、この3人は前代同様藩主の近臣になれる可能性が十分にあったということだ。
にもかかわらず、3人は髷を切った。
前藩主・徳川頼職は急死だった。
藩主就任4ヶ月で突然死んだ。
親頼職派の連中はこの死に疑念を抱いた。
「毒飼い(毒殺)ではないのか?」と。
吉宗といえやっサンの共通点に
自分で薬を作ることが出来る
というのがある。
これもまた、親頼職派が吉宗を疑う理由の一つになった。
確かに、徳川吉宗が部屋住み→丹生藩主→紀州藩主→八代将軍と駆け上がって行くうえで、彼の周辺に急死する人物が何人かいるのは事実だ。
内藤たち3人は法度違反で知行没収・紀州藩追放処分となった。
のちにこの3人は頼職の生母・真如院の執り成しで紀州藩に復職するが、この事件は頼職の死について「吉宗は限り無くクロに近いシロ」と遠回しに言っている。
ただ、仮に頼職の死が毒殺だったにせよ、吉宗自身がそれを思いつきそしてそれを実行したかと言えば、やはり疑問に思う。
吉宗自身は終始一貫「基本は人のいのち」を通した人だ。そうすると、吉宗以外の人間のほうが怪しいとなる。
じゃ、誰が?
綱吉将軍じゃないのか?と思われる。
理由は2つ。
1つ目は綱吉将軍が吉宗を早くから可愛がっていたこと。
2つ目は頼職が父・光貞が和歌山で死んだとき幕府に無断で帰国したこと。
特に無断帰国については御三家で無ければお取り潰しになる重大な違反行為だ。
綱吉将軍がこの違反行為を見て「紀州は、御三家の地位にあぐらをかいているのではないか」と思っても不思議では無い。そのことが頼職急死につながったのかも知れないとも思える。
吉宗は藩主在任中に紀州藩財政を見事建て直した。