【2009年4月8日】
吉晴はもともと豊臣恩顧の大名で、関ヶ原の前は遠江浜松12万石の大名だった。
吉晴は関ヶ原の戦いの2ヶ月前、大事件に巻き込まれた。
吉晴は中部・東海の東軍の武将と三河国池鯉鮒というところで酒宴の席を設けた。
この席に、加賀井重望という男がいた。加賀井は「かがのい」と読む。
この加賀井という男がとんでもないことをしでかした。
酔ったうえでの口論。
これが一般的にこの殺害事件の動機とされている。
ただ、だいじな合戦を間近に控えてそんなことするかな?と思ったとき、一つの仮説が成り立つ。
それは加賀井があらかじめ殺害を石田三成や島 勝猛(左近)に言い含められていたのではないか、と。
水野忠重はいえやっサンの母・於大の方の弟だ。忠重を殺害すればいえやっサンに対する打撃になる。そう考えた三成や勝猛が加賀井を使って忠重を殺害したのではないかとも思える。
吉晴は忠重を殺害した加賀井を討ち取ろうとした。
加賀井が槍を取って抵抗したため吉晴は傷を負ったが加賀井を討ち取った。吉晴はこのときの傷がもとで関ヶ原の戦いには参戦出来なかったが、息子・忠晴が参戦し奮戦した。
関ヶ原の戦後、いえやっサンは吉晴に13万石加増し出雲・隠岐の2ヶ国を与えた。
「外様には気前良く」
いえやっサンは吉晴に対してもそうした。
が、いえやっサンが遠江浜松12万石から出雲富田25万石に倍加増したのは加賀井重望成敗や息子・忠晴の奮戦が理由では無い。
本当の理由は
「帯刀どのは近畿・北陸の情報を逐一教えてくれた」
というものだ。
これは同じく遠江掛川5万石から土佐浦戸20万石に4倍加増された山内一豊にも共通している。
一豊の妻・千代もいえやっサンに情報提供をしている。
いえやっサンは勝つために「情報」を重視したのだ。
吉晴は尼子経久以来の名城・月山富田城に入ったが、吉晴は「新城を築く」と言い、松江城を築城した。
「山陰の覇者」尼子経久の城は、松江城が竣工すると破却された。
戦国から泰平へ。