【2009年4月3日】
昭和55年、大阪城の発掘調査が行われ、その際に豊臣秀頼のものと見られる頭蓋骨が発掘された。
耳のあたりに火傷のような痕があり、このため「秀頼は難聴だったのではないか?」とも言われる。
ただし、これは秀頼のものと見られる頭蓋骨であり、秀頼のものと断定はされていない。
このことが、今日なお「秀頼生存説」が根強く残る一因となっている。
大坂落城後、秀頼はどこに消えた?
オレはあまり異説・奇説は信じないから、「やっぱり淀殿ともども山里郭で自害したんだろうなあ」と思っている。
が、「秀頼母子だ」と断定出来る遺体が焼け跡から見つからない。
焼け跡には自害した連中の遺骨がゴロゴロ転がってるから「死んだんだろう」ってなる。
「これが秀頼どのの遺骨、これが淀殿の遺骨」
当時断定出来れば、今日ある異説・奇説はすぐにでも掻き消せるだろう。
当時は遺骨を特定する科学的技術なんて無いから、「実は生きていた」という異説・奇説を生み出してしまう。
大阪城公園の桜を見て、ハタチの頃に秀頼について読んだ本のことを思い出した。
その本には
「秀頼は大坂落城後薩摩に落ち延びたが、そこで問題が起こった。お金を払うという習慣が無かったので、無銭飲食をしてもめ事になった」
と書かれていた。
ちょっと笑ってしまうが、「あり得る話だな」と思った。
大坂城にいた頃はあらゆる全てのモノがタダなのだから、鹿児島の飲食店でもそうなのだろうと思ってしまったのだろう。
店では薩摩藩の人間を呼んで苦情を言い立てた。
あとで薩摩藩の人間は秀頼に「ここは大坂城とは違うのです。食べたらちゃんとおカネを払って下さい」と説教した。
秀頼が説教される風景を想像すると、また笑ってしまう。
秀頼はその後大きな病気やケガをすること無く90歳くらいまで生きたのだと、その本には書いてあった。
よい子のみんな、無銭飲食はやっちゃダメだぜ!