【2009年3月11日】
加藤忠広。
肥後熊本54万石の国持大名だ。
いや、大大名だ。
九州には、外様国持が多い。
◆島津家久→鹿児島77万石
◆細川忠興→小倉39万石
◆鍋島勝茂→佐賀35万石
◆田中忠政→久留米33万石
◆黒田長政→福岡52万石
彼等はみんな外様大名に分類される。
外様とはよそ者という意味だ。よそ者だから、出来るだけ江戸や京都から遠い場所に追いやられる。
「外様など、在るだけ迷惑」
と言っている。
これは利勝に限らず、譜代大名の連中はみんなそう思っていた。
加藤忠広も、その目で見られた。
家老の加藤正方と同じく家老の加藤正次がそれぞれ党派を作って権力争いを激化させた。
この騒動は「牛方馬方騒動」と呼ばれ、正次派を「牛方」正方派を「馬方」と呼んだ。
「牛方」は武断派で、豊臣贔屓の反幕府の連中の集まりだった。一方、「馬方」は幕府ベッタリの連中の集まりだった。
いえやっサンの死後、まず「馬方」の下津宗秀が
「『牛方』の玉目丹波が先年の大坂攻めの際、こっそり兵糧を大坂城に送っていました」
と幕府に訴え出た。
「牛方馬方騒動」は江戸でも知られていて、秀忠将軍は「直接裁判を行う」と「牛方」・「馬方」の双方を江戸に呼びつけた。
秀忠将軍は双方の陳述を聴いたうえで、
「『牛方』を有罪とし、玉目丹波は会津藩にお預けとし、他の『牛方』も他家にお預けとする」
という判決を下した。
このような御家騒動が起きた場合、お取り潰しになるのが当たり前なのだが、加藤忠広が大坂の陣の当時まだ13歳だったことを考慮した秀忠将軍は熊本藩を取り潰さなかった。
それから13年。
この13年の間に忠広は徳川忠長と親しくなった。
これがマズかった。
徳川忠長が取り潰されたのだ。
そして親しかった忠広も突然取り潰され、身柄を庄内藩にお預けとなった。
忠広の子・光正も飛騨高山の金森家にお預け処分となったが、光正は高山に向かう途中舌を噛み切り自害した。
忠広は庄内の丸岡というところに1万石を与えられ、丸岡で死んだ。
忠長も忠広も、土井利勝に取り潰された。