【2009年3月9日】
片倉小十郎重長。
病床の父に代わり大坂の陣に出陣し、後藤又兵衛を見事討ち取った。
また、真田幸村軍とも勇敢に戦った。
重長の戦いぶりを見た幸村は
「長男の大助は大坂落城とともに自害することになっているが、残りの子供たちを片倉どのに託したい」
と重長に手紙を送った。
大坂落城後、重長は幸村の遺児1男3女を白石に引き取った。
このうちの1男が大八という名前の男子児童で、白石に引き取られたときはまだ2歳だった。
大八は無事成長し、
という名前で人生を歩み始めた。
が、守信の前途は明るくは無かった。
徳川幕府が執拗に豊臣家の残党狩りを続けていたためだ。
幕府は重長が幸村の遺児を引き取ったことに気付いた。
「幸村の遺児を差し出せ」と、まずは仙台藩に要求した。
伊達政宗は「このまま言うこと聴くのも面白くねえな」と、この男の本領である「へそ曲がり」を発揮した。
政宗は
「真田大八は8歳のときに『京都を見物に行く』と言って京都に行き、そこで頭を石に打ちつける事故があって、その傷がもとで死にました」
とヌケヌケと口からデマカセを並べた。
この報告を部下から聴いた土井利勝は
「これだから、仙台のジジイは苦手だ」
と吐き捨てるように言った。
「三代の名相」と呼ばれ天下一の知恵者である利勝でさえ、政宗には手も足も出なかった。
利勝にとって、政宗は生涯ただ一人の苦手だった。
「ジジイはダメ(苦手)だから、直接片倉を突つくか」
利勝は今度は直接白石城に役人を派遣した。
「真田大八は白石に居るのであろう?隠しても無駄じゃぞ」
役人がこう言うと、重長は
「白石に(片倉家家臣に)真田姓の者はおりません」
ときっぱりと言いきった。
白石に役人が来る前、重長は政宗から
「大炊頭(=おおいのかみ。利勝のこと)はあの性格だから、次はおまえのところに直接来るぞ」
とアドバイスを受けていた。
それで重長は真田守信を片倉守信と改名させて「偽装」したのだ。
報告を聴いた利勝は「クソジジイッ!」と大声で怒鳴って、同時に真田守信の身柄拘束も諦めた。
守信の子・辰信のとき、姓を真田に戻した。
仙台真田家の子孫の方は今もいらっしゃる。