【2009年2月5日】
東京都港区海岸1丁目。
現在は「芝離宮恩賜庭園」と名付けられ、観光客が訪れる。
小田原藩祖を大久保忠隣とするか大久保忠朝とするかは意見が分かれるかも知れないが、小田原藩主が忠朝の代から大久保家で固定されたので、忠朝を藩祖としても良いのではないかと思う。
祖父・忠隣が本多正信・正純父子との政争に敗れ小田原藩がお取り潰しとなったので、その孫の忠朝は唐津藩主だった。
忠朝は家綱将軍から庭園を賜るくらい信用のある人で、やがて老中職(国務大臣)に就いた。
それとともに、唐津から佐倉へ国替えとなった。
ただ、本心は佐倉では無くて祖父ゆかりの地・小田原への復帰を望んでいた。
家綱将軍から綱吉将軍へ代が替わり、幕府の政治が安定しつつあったある時、江戸城内で大事件が起こった。
人一人殺害するのである。当然、動機があったはずだ。
正俊の傷は腹から背中に抜けており、深々と刺したことを物語っている。刺し傷は何ヶ所かあったが、そのいずれもがからだを貫通していた。
これは、明確に殺害する意思があった証拠でもある。
さて、その動機について。
不明だ。
本来ならば稲葉正休をその場で拘束し、取り調べをするのが普通なのだが、稲葉正休は正俊を殺害したその場でメッタ斬りにされて絶命した。
まるでそれは野菜をせん切りにするような感覚で斬り刻まれた。
だから、直接の動機はわからない。そのメッタ斬りをやったのが大久保忠朝だった。
「何故稲葉石見守を取り調べずに斬殺したのじゃ?」
と聴かれた。
忠朝は
「御大老が眼前で殺害され、思慮を忘れました」
と答えた。
ウソである。
この処置はすでに綱吉将軍から言い含められていたのだ。
堀田正俊は綱吉政権誕生の最大の功労者で、だからこそ綱吉将軍は正俊を大老職にまで就けた。
が、年が経つにつれ両者の関係は上手くいかなくなった。
そこに、正俊と稲葉正休の不仲を知った。
綱吉将軍は片手で稲葉正休に正俊殺害をけしかけ、片手で忠朝に稲葉正休の「口封じ」を命じたのだ。
「口封じ」の見返りは小田原への復帰だった。