【2009年1月23日】
熊本藩細川家の初代は細川忠利だが、忠利の父・忠興(三斎)が隠居城の八代城に健在だったことから、忠利は常に父親を意識しながら藩運営をしなければならなかった。
さらには、忠興が忠利よりも長命だったことから、忠利には生涯父親との比較が付いて回った。
その忠興もまた、若かりし頃は父・藤孝(幽斎)との比較に苦しんだ。
それはもう、忠利が忠興との比較に苦しんだなんてもんじゃなかった。
藤孝は誰もが知っている古今伝授の継承者であり、文化人としては「超」があたまに100個くらい付いてもおかしくない人で、武将としても関ヶ原の戦いの近畿版とも言える田辺城(現・舞鶴城)の攻防戦でガッツ溢れる籠城戦を展開した。
こんな「文武両道」の父親と比較されるのだ。忠興の心理的重圧は相当なものだった。
そんな忠興が大御所家康死後のある時、江戸城に呼ばれた。
呼んだのは秀忠将軍だった。
秀忠将軍もまた、忠興同様父親との比較に長年苦しんだ。
秀忠将軍の場合、その精神的重圧は忠興の比では無い。何せ、日本で一番偉い人と比較されるのだから。
秀忠将軍はこの苦しみを打ち明ける相談相手に忠興を選んだ。秀忠将軍は、ありのままの気持ちを正直に、取り繕わずに忠興に話した。
忠興はそれを聴いて、
「四角い櫃に入った味噌を、丸いおたまですくうようなお気持ちで臨まれればよろしゅうございます」
と、優しく穏やかな口調で言った。
忠興はさらに続け、
「私も父・藤孝との比較に苦しみました。何せ誰もが知っている文化人でございまする。宮津にても小倉にてもいつも父との比較でございました。つらくて、苦しくて、耐えかねると思ったこともしばしばでした。が、ある日、『父は父、私は私』と思うようになれたのです。それが先ほどの味噌の話の境地なのです」
と話した。
四角い櫃に入った味噌を丸いおたまですくったら、隅っこや角っこはきれいにすくえない。
これは「細かいことを気にすんな、くよくよすんな」という励ましなのだ。
秀忠将軍は「味噌の話」で吹っ切れた。
「越中守どの、こころの重石が取れました」
秀忠将軍の顔には何の迷いも無い笑顔があった。
一皮ムケたのだ。
一皮ムケた秀忠将軍は土井利勝と二人三脚で松平忠直・福島正則といった国持クラスの大名のお取り潰しを次々と断行。
一皮ムケた秀忠将軍は強くなった。