【2009年1月21日】
保科正之が将軍補佐職として実施した政策のうち二つが、「寛文の二大美事」として高く評価された。
一つ目は殉死の禁止だ。
殉死というのは先代の主君が死んだとき、家臣が「黄泉へのお供」だとか「究極の忠義」だとか言って後追い自殺するキチガイじみた行為のことだ。
長く続いてきた悪習で、地位が高かった者や高禄を与えられた者は誰に強要されるわけでも無く、すすんで腹を切った。
ただ、人間は当然「自害なんかイヤだ」と思うものなのだが、殉死をしない者は口汚く罵られたり冷遇されたりした。
保科正之と同時代を生きた大名たちは内心では「こんな習慣はイヤだなァ」と思いつつも、長年続いてきたこの悪習を断ち切るまでの決断は出来なかった。
それを、保科正之がやってのけた。
理由は二つある。
まず一つ目は正之自身が「基本は人のいのち」であると考えていたこと。
確かに正之は家光将軍の頃山形領で一揆の首謀者30人ほどを殺害しているが、これは島原の乱に一揆が呼応したら日本全土が混乱してしまうためと、一揆は違法であるという統治上正当な理由がある。この殺害以外に正之が誰かを殺害したことは無い。
二つ目は首席老中・松平信綱が殉死を拒んだことに対する江戸っ子たちの反応だ。
江戸っ子たちは
伊豆の豆(ず)は
豆腐にしては
良けれども
役に立たぬは
切らずなりけり
と殉死しなかった信綱をどぎつく罵った。
豆(ず)は頭(ず)にかけたもので、知恵伊豆と呼ばれた信綱を皮肉ったもので、切らずはきらず(おから)にかけたもので、信綱はカスだと言っているのだ。
「異常だ」
正之はこう思った。
そして正之は
「殉死などというキチガイじみた悪習は私の代でやめさせる」
と殉死禁止令を出した。
こうしてこのおぞましい、異常な習慣は無くなっていった。
次に正之は大名証人制度の廃止に踏み切った。
証人というのは今の言葉でいう人質のことだ。
証人はその大名の家老クラスの家臣の家族を交代で江戸に住まわせたものだが、大名の間からは悪評が噴出していた。
「ある程度相手(大名)を信じることも必要」
正之はそう思い、大名証人制度を廃止した。
証人制度の廃止を諸大名は「さすが肥後守様は名君だ」と高く評価した。