【2010年12月13日】
「秀頼殿と淀殿は、あの糧蔵にいるぞ!」
豊臣秀頼と淀殿が糧蔵に逃げ込むのを目撃した者が大声を出してそれを伝えた。
この戦いで豊臣家はきれいさっぱり滅亡した。
貧しい百姓の子が関白にまでのし上がってキンピカの大坂城を築いたが、その栄華も息子の代できれいさっぱりこの世から消えた。
淀殿は、糧蔵から使者を出した。
命乞いの使者である。
使者と面会した秀忠将軍は「断る。潔く腹を切られよ」と言ったが、いえやっサンは正反対の答えをした。
「かつての右大臣への礼をもって、駕籠を用意する。それに乗って我が陣まで来られよ」
いえやっサンには考えがあった。
豊臣家はたった65万石。
戦後、譜代・外様の別無く恩賞の領地を与えなければならない。
しかし、秀頼母子を殺さずに千姫とその夫と母親という扱いにして、「今度のいくさは大野治長と浪人のせい」とすれば恩賞の用意が必要なくなる。
いえやっサンはそこまで考えて助命しようとしたが、それが現場に通じなかった。
使者が糧蔵に戻って少し経ってから、糧蔵を包囲していた近江彦根藩主・井伊直孝の鉄砲部隊が一斉に糧蔵を射撃した。
これを淀殿は「自害の催促鉄砲」と思いこんだ。淀殿は中にいた人間に床いっぱい火薬を撒くよう命じて糧蔵に火を放った。
全員焼死。
いえやっサンは燃え盛る糧蔵を見ながら
「これで恩賞を用意せねばならなくなったわ…」
とボヤいた。
「このたわけめ!勝ち鬨など無用ぞ!!」
と、まるで馬鹿を相手にするような、半ば詰るような口調で言い放った。
糧蔵では失敗した直孝だが、心温まる一面も見せた。
大坂城落城後、長宗我部盛親が身柄を拘束されて井伊家の陣の柱に縄で括り付けられた。
井伊家の兵隊たちが動けない盛親の口に無理やり米飯をねじこむ等の侮辱を加えているところを直孝が見つけると
「馬鹿者!それがかつての土佐一国の国主に対する態度か!!」
と一喝し、盛親の縄を解いて兵隊の侮辱行為を謝罪した。
直孝は
「長宗我部殿、ご処分決まるまでの間、我が屋敷にて過ごされませ」
と井伊家の大坂屋敷で丁重にもてなした。
長宗我部盛親は斬首となったが、執行前、
「徳川軍は弱かったが、井伊直孝の軍だけは素晴らしい強さだった」
と言い残した。