【2010年11月30日】
双子。
医学的には双生児と呼ぶ。
今の社会では双子はおめでたいもの、微笑ましいものとして扱われる。
しかし、江戸時代は違った。
江戸時代、双子を生んだ女性は
畜生腹
と呼ばれて蔑まされた。
ひどく差別じみた言葉だが、この当時、「ヒトの女性は1人ずつ生むのがまとも」というのが常識として刷り込まれていた。いっぺんに2人も3人も生むのはイヌ・ネコだという考え方が染み込んでいた。それは武士階級であれ庶民の家であれ同じであった。
いえやっサンの次男坊だ。
母親は池鯉府神社の神主の娘でまんという名の女性だった。
まんはいえやっサンの眼に止まって側室となり、やがて妊娠した。
しかし、まんの妊娠を知った「ヒステリーママ」の正室・築山殿が
「このオンナ、わらわにこっそりと殿の子を孕みおって!」
と癇癪を起こし、
「このオンナを裸にして木に吊して鞭で打て!」
と侍女に命じた。
侍女は命じられるままにまんを裸にして木に吊して鞭で打った。
そこへ、鞭を打つ音とまんの悲鳴に気付いた本多重次(作左衛門)が
「やめい!まんどのの腹には殿の御子がおるのだぞ!!」
と大声を上げて折檻をやめさせた。
まんは本多重次に匿われ、やがていえやっサンの子供を生んだ。
生まれた子を見て本多重次は
「しまった!」
と、つい声を出してしまった。
まんは双子の男児を出産した。双子のうちの片方は死産だったが、重次以外の人間も双子で生まれて来たのを見てしまったため、双子である事実を隠すわけにはいかなくなった。
本多重次はありのままをいえやっサンに報告すると
「畜生腹か…」
とがっかりした。
いえやっサンは、双子で生まれた次男坊に会おうとしなかった。
この次男坊が3歳になったとき、たまりかねた長男・信康が
「父上、あの子も徳川の家の子ぞ!」
といえやっサンを怒鳴った。
いえやっサンは渋々この双子の片割れに面会した。
いえやっサンはよほど双子であるというのが嫌だったのだろう。次男坊の顔を見ると
「この顔は、ぎぎうだ」
と顔をしかめながら吐き捨てるように言った。
ぎぎうとは当時三河地方で味噌汁の具にされていた川魚だ。
ぎぎうに似ているからということで「於義伊丸」という幼名を付けられた。
いえやっサンは生涯、秀康に対してよそよそしかった。