【2010年11月16日】
上杉景勝が会津若松に国替えになる際、石田三成が春日山の直江兼続を訪ねた。
三成は
「山城守どの、殿下(秀吉)は今度の国替えで堀家を潰してしまいたい、と」
と兼続に話した。
上杉景勝に代わって越後一国を与えられる堀 秀治は織田軍団の中で「堀か蒲生か、蒲生か堀か」と言われた堀 秀政の嫡男で、越前北ノ庄城主だった。
「堀か蒲生か、蒲生か堀か」
片方の蒲生氏郷は秀吉が京都で毒殺した。そしてその子の秀行は幼少を理由に陸奥会津若松94万石を下野宇都宮18万石に大幅に削減された。
秀吉は「次は堀家」と考えた。そこで、秀吉は堀家取り潰しの策略を三成に任せた。
直江兼続は
「治部少輔どのがそういうなら」
親友からの依頼である。兼続は堀 秀治には何の恨みもないが、堀家取り潰しのために知恵を使った。
まず、国替えに際して春日山城に蓄えてあった年貢米等を全て会津若松へ持って行った。
国替えの際、たいていの場合は蓄えの一部から半分程度を新領主に引き継ぐものなのだが、兼続はわざと全部会津若松へ持って行った。
新しく入封した堀 秀治は困った。城に蓄えが無いのだ。仕方なく、その年の年貢を重くした。これが越後の領民から恨みを買った。
続いて兼続は忍者を十数人集め
と命じた。
忍者たちはその日のうちに会津若松を出発し、春日山に潜り込んだ。さらにそこから忍者たちは越後全域に散らばった。
忍者たちは
「おまえたちの今年の年貢が重いのは、堀 秀治が贅沢をするためぞ」
とデマカセを言い触らした。
城の蓄えがスッカラカンだったためのやむを得ない重税。しかしそんなことは農民たちにはわからない。
デマカセは確実に効力を発揮した。
「上杉様はオラたちをだいじにしたども、堀様はオラたちに酷くしたすけない!」
こうして、「上杉遺民一揆」は勃発した。
初めは一揆勢が優位に戦いを進めていて、兼続も裏から援軍を出して応援した。
が、堀家の名家宰・堀 直政(奥田直政)に撃退され、一揆も鎮圧された。
直江兼続が上杉家の名家宰であるのと同様、堀 直政もまた、堀家の名家宰であった。
堀 直政の存命中、越後春日山45万石は安泰だった。