【2010年8月30日】
関ヶ原の戦いで盛親はやむを得ない事情から西軍に付いた。このへん、島津義弘に事情が似ている。
盛親と義弘の違いは、義弘は烏頭坂の戦いで壮絶な撤退戦を繰り広げていえやっサンの度肝を抜いたのに対し、盛親は南宮山の吉川広家のために釘付けにされて何も出来なかったことだ。
いえやっサンはこれを「無抵抗」と判断した。なので、最初は盛親に対して悪い感情は抱かなかった。
加えて、井伊直政の執り成しもあって最初は「お咎め無し」にしようとした。
しかし、状況が変わる。
盛親が家臣の讒言から実の兄である津野親忠を殺害したのだ。
津野親忠は盛親の兄である。当然、長幼の序からいけば兄のほうが家督を継ぐべきはずなのだが、親忠は藤堂高虎と仲良しだったことがあだとなって津野家に養子に出された。盛親は高虎を嫌っていたためだ。
長宗我部元親が何故藤堂高虎を嫌ったのかは理由がはっきりしないのだが、元親の死後、また高虎の名前が出る。
「親忠様は藤堂高虎と謀って土佐一国を乗っ取ろうとしている」
家臣からの通報を受けた盛親はそれを信じて兄を殺害した。
しかし、これは讒言だった。
親忠の家臣は深く恨み、いえやっサンに親忠殺害を訴え出た。
いえやっサンは
「実の兄を殺害するくらいだ。主人も平気で殺すであろう」
と言い、長宗我部家を取り潰した。代わって、土佐一国は山内一豊に与えられた。
浪人になった盛親は京都で京都所司代・板倉勝重の監視の下、寺子屋の師範として第二の人生を送ることになった。
十年ほど経って、京都の盛親のもとに豊臣家の使者がやって来た。「大坂城に入って、秀頼様のために戦って下さい」と。
「どうせ寺子屋の師範で死ぬくらいなら、大坂城でもうひと暴れしてやるか」
このとき、秀頼から「大坂方が勝てば、恩賞は土佐一国」と提示されたという話もある。
大坂の陣は秀頼母子が自害して決着がついた。
盛親は蜂須賀軍に捕らえられ、秀忠将軍の前に曳き出された。
秀忠将軍が盛親に下した処分は
判決、斬首
だった。
盛親は首を打たれるまで堂々とした態度で、徳川軍の諸将は感服したと伝えられている。