【2010年7月29日】
上の弟を重利、下の弟を三弥といった。
このうち、重利のほうが会津若松に身柄を移され、そしてそこで死んだ。
松倉勝家の父・重政が大和五条1万石から肥前島原4万石に転封となって島原にやって来た。
松倉重政は五条では名行政官として知れ渡ったが、その反面、
根っからの戦争屋
の顔を持ち合わせていた。
戦場に出ると、気が狂ったように戦った。そうして重ねた手柄が島原4万石だった。
浪人がいえやっサンの眼に止まって4万石。
しかし、島原には数多くのキリシタンがいた。幕府はキリシタンを禁じているため、島原は難しい土地と言われていた。
幕府は「松倉重政が適任だろう」と人事を決めた。根っからの戦争屋に期待したのはキリシタンの弾圧だった。
しかし、重政が殺しても殺してもキリシタンはあとからあとからまた島原に入って来るのだ。
重政はダラダラと人殺しをしていても無駄だと思った。そんなある日、重政は島原に入って来るキリシタンがマニラから来ることを知った。
重政は幕府に
「マニラ攻めの総大将を命じて下さいませ」
と申し出た。
ちょうどこの頃、幕府には明(清)に出兵して領地を斬り取り、そこを浪人の領地にしようという案があった。言い出したのは徳川頼宣だ。
「大明攻め候ば、斬り取り勝手」
幕府にそんな空気が漂っている中、重政はマニラ攻めを申し出た。
重政もまた
「マニラ攻め候ば、斬り取り勝手」
と思ったのであろう。
が、これは実現しなかった。幕府からのGOサインは出たのだが、当の重政が温泉で湯当たりして体調不良となり、そのまま死んでしまったのだ。
重政の跡を継いだ勝家のときに島原の乱が起こり、松倉家はお取り潰しとなった。
松倉勝家は乱の責任を問われて斬首。官位を持った大名を斬首という不名誉刑に処したのは、「一揆は松倉勝家の失政」ということを世間に知らしめるためであろう。
松倉重利は初め讃岐高松の生駒高俊にお預けになったが、生駒家がお取り潰しになると会津若松の保科正之にお預けとなった。
正之は重利を粗末には扱わなかったが、重利には何らかの不満があったのであろう。家綱将軍に代が替わった頃に自害した。
はっきりした理由はわからない。
もう一人の弟・三弥は松倉家改易とともに行方知れずになっている。