もずの独り言・はてな版ごった煮

半蔵&もず、ごった煮の独り言です。

松山城

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【2010年7月8日】

松平定国。

伊予松山15万石の大大名だ。

幼名を辰丸という。

弟に賢丸がいる。

賢丸はのちの将軍補佐職兼首席老中・松平定信だ。

辰丸は田安徳川家に生まれた。

父親は家重将軍と九代将軍の座を争った徳川宗武だ。

田安家にはすでに跡継ぎの治察がいたので、辰丸は伊予松山藩久松松平家に養子に出された。松平定国の名前はここで出て来る。

弟の賢丸も陸奥白河藩久松松平家に養子に出され、松平定信と名乗った。

家治将軍が薨去して家斉将軍が就任した。

家斉将軍は14歳だったため徳川一門から「将軍補佐職を出そう」ということになった。

将軍補佐職とは家綱将軍の代に一度だけ設置され、保科正之が就任している。

幕政とは切り離して将軍を補佐する役職で、相談役や名誉職といった色合いが強かった。

初め、この将軍補佐職に名前が挙がったのが定国だった。が、定国は

「非才のうえ多病なので、辞退します」

と断った。

断るには理由があった。

家斉政権は「反田沼」の政権なのだが、定国は田沼意次が次席老中だった頃、どうしても葵紋の使用許可が欲しくて田沼に多額の賄賂を贈ったことがあるためだ。賄賂は実って定国には葵紋の使用許可が出た。

あまりの嬉しさに定国は葵紋を江戸屋敷の瓦にまで彫り込み、江戸っ子から顰蹙を買った。

バツ悪かったのだろう。

こうした経緯から将軍補佐職を辞退し、代わって弟の定信が将軍補佐職兼首席老中に就任した。

しかし、本心では「将軍補佐職になりたい」と強く思っていた。

そのため、弟・定信の寛政の改革に「厳し過ぎる」と批判が出ると、白河藩の家臣を呼びつけて「そんなことではいかん」と叱った。

定信にしたら「兄上、余計なお世話だ」と言いたくなっただろう。

また、尾張藩主・徳川宗睦

「弟に失政があったときは、兄としてただちに辞職させる」

と口にした。

徳川宗睦は定国について

「気が強く、少し軽率なところがある」

と評している。

そのまんまである。葵紋の使用許可のため軽率に田沼に近づき、将軍補佐職を棒に振った。

そのくせ、弟のやることには口出しせずにいられない気の強さ。

定国と似たような性格の者が幕末、松山で生まれる。

正岡子規である。