【2010年6月28日】
慶長13年、ある1組の母子が再会を果たした。
母親は中川糸子。
子供は池田利隆。
この母子は理由があってずっと離ればなれで暮らしていた。
中川糸子は織田家の軍事将校・中川清秀の娘で、同じく織田家の軍事将校・池田恒興(信輝)の息子・輝政に嫁いだ。
18歳の時に利隆を身ごもり出産した。 が、糸子は育児ノイローゼにかかってしまう。
今でこそこの言葉(病名)は社会一般に認知されているが、この当時の常識では「発狂乱心」と判断された。
この状況を知った豊臣秀吉は
「糸子どのを離縁して、督姫どのと縁組すればよい」
と輝政に言った。
督姫というのはいえやっサンの娘で、北条氏直に嫁いでいたが小田原城落城後に出戻っていた。
この縁組には池田家からも中川家からも反発が出た。
長久手の戦いの際、輝政の父・恒興は徳川軍に討たれた。そのため池田家ではこの縁組に抵抗があった。が、秀吉に反抗しきれず、とうとう育児ノイローゼの糸子を離縁して中川家に送り返した。
「池田家とは、金輪際絶交だ!」
中川家は激怒した。
いくら育児ノイローゼとはいえ、追放同然で中川家に送り返された糸子を思い池田家と絶交した。
こうして、池田利隆は幼くして母・糸子と引き離された。利隆にとって糸子は「瞼の母」となった。
備前岡山藩主・小早川秀秋が死去すると、備前一国28万石は池田輝政に与えられた。
輝政は督姫との間に出来た忠継に備前一国28万石を内分知し、その監国(政治監督)に利隆があたった。
利隆は監国という「職権」を利用した。
まず、中川家にかつての非礼を詫びる手紙を書いた。
その手紙には、詫びの文言のあとに
「母に、会わせて下さい」
と書かれていた。
中川家では「何を今さら」という空気が充満していたが、糸子本人が
「利隆に、会いたい」
と、明確な意思表示をしたため中川家の家臣たちも止めなかった。
「姫路に行くと言うなら止めるが、岡山の利隆どのなら…」
「母上!」
池田利隆、26歳。
中川糸子、44歳。
牛窓の宿で二人は手を取り合って涙した。
たった1日の再会だったが、二人は何十年分に値する時間を過ごした。